これからの話

世の男女は結婚の契りを交わした時、次に一体何をするのだろうか。冨岡さんは十二の時、私も同じ歳の頃に家族を亡くして以来天涯孤独の身だった。祝言をあげようにも呼ぶ親族もお互いにない。婚姻のしきたりというのもよくわからない。

川沿いのベンチはやっぱり寒いということで、私たちは下宿先へと戻ってきた。ここには応接室のような場所もなく、居間では誰に話を聞かれるかわからないので、仕方なく二階の自室に冨岡さんを案内した。六畳の狭い部屋には出かけに放り出してきたやりかけの仕事がそのままで、私は慌てて布地や裁縫道具を押し入れに放り込んだ。

「すぐ、すぐお茶を持ってきます!」

背中から構わないがと言う冨岡さんの声が聞こえたけれど、私は歩みを止めることなく階段を駆け降りた。冨岡さんが私の部屋にいるというのはなんだか不思議な感じがするし、今更だけれど恥ずかしくて緊張してしまう。これから夫になるという人に…。

「夫…!」

慣れない。全くもって慣れない響きだ。勝手に赤くなる顔を両手で抑えながら台所へ向かうと、買い物帰りだろうか、籠から野菜やら卵やらを出している喜美子ちゃんがいた。

「名前さん!その指輪!」

頬に張りついたままの左手を見て喜美子ちゃんがそう言った。喜美子ちゃんは女中さんなだけあって細かいところによく気がつく人だ。悪く言えば、目敏い。

「あの男前の彼?やだ、おめでとうございます!」
「そ、その話は後で…お茶!お茶淹れて、二つ!」
「えっもしかして今来てるんですか!」

喜美子ちゃんはニヤニヤ笑いながら私の背中を押して台所から追い出した。

「後でお部屋までお持ちします」

含み笑いを浮かべる喜美子ちゃんに、もうこの世に私の心安まる場所なんて無くなってしまったのではと思った。渋々もう一度階段を上がり部屋の障子を開けると、隅の方で冨岡さんが正座していた。

「あの、お茶、すぐ持ってきてくれるそうで…」
「そうか、すまない」

こういう時どこに座るのが正解だろう。隣?それとも正面?恥ずかしくて思わず斜向かいに腰を下ろすと、なんともいえない距離感に若干の気まずさが生まれる。

「住む場所を決めないとな」

しばらく沈黙が続いて、慣れない左の薬指の感覚に、膝の上で少し角度を変えながら光が反射する様をぼんやりと眺めていた。けれど冨岡さんの言葉に思わず顔を上げる。確かにそうだ。

「そうですね、ここは下宿先だし…冨岡さんのお宅に私が越すのが一番でしょうか」
「だがそれだと仕事場まで通うのが大変だろう」
「へ?」
「ん?」

思わぬ返事に私は変な声が出て、冨岡さんは些か眉を顰めたようだった。

「仕事、続けていいんですか?」

母は仕事をしていなかったし、子どもの頃近所に住む女の人はみんなそうだった。なんとなく結婚すると仕事を辞めないといけないと思っていたから、冨岡さんが結婚後の私の仕事のことまで考えてくれているなんて思ってもみなかった。

「俺に構うことはない。続けたいなら続けるといい」
「あ、ありがとうございます」

深々と冨岡さんに頭を下げると、襖の向こうで失礼しますと喜美子ちゃんの声が聞こえて慌てて顔を上げた。恭しく戸を引いた喜美子ちゃんは奥に座る冨岡さんを一度チラリと見て、お茶を置き、そしてすぐに下がっていった。冨岡さんが喜美子ちゃんの視線を訝しんでないか気になったけれど、当の本人はそんなことどこ吹く風でお茶を受け取ろうとしている。どうやら特に気にしてはいないようだ。

「あ、あの、私は冨岡さんのお宅から仕事場まで通うことになっても構いません」

遮られた話の続きを再開する。新たに居を構えるとなると何かと入用になる。そんな贅沢ができる身分ではないのは重々承知だ。

「あそこは広すぎて、一人では持て余している。二人でも同じだ」
「そう、ですか」
「金のことなら心配するな」

そう言った冨岡さんの顔は妙に頼もしかった。平凡な生活にすっかりと馴染んでしまった私はつい忘れがちだけれど、冨岡さんは元柱だ。蓄えも私の想像以上なのだろう。水柱様のお屋敷に出向いたことはなかったけれど、蝶屋敷の広さを考えると冨岡さんの言葉はもっともだと思い直した。

お茶を飲み終えた冨岡さんは、新居については考えがあるので任せてほしいと言い残し、部屋を後にした。玄関先まで冨岡さんを見送って部屋に戻ってくると、冨岡さんのいなくなった部屋が少し広く思えた。なんだか夢を見ているような一日だったな。だけど左の薬指の感覚が、今日という日が現実に起こったことだということを教えてくれていた。

これからどんな生活が待っているんだろう。その真ん中にいるであろう冨岡さんのことを考えると、胸が熱くなったりきゅうっと締め付けられたりするので、その日の夜はなかなか寝付くことができなかった。


(210529)