冨岡さんが下宿先から歩いて行ける距離のところに小さな一軒家を見つけてくれたのは、年が明けてすぐの頃だった。小さいけれど二階建てで、南向きに面した庭が素敵な家だった。どうやら輝利哉様の伝手を頼って手頃な物件を探していたらしい。
「改めてご挨拶に行かなければなりませんね」
「そうだな」
結局下宿先には半年と二ヶ月ほどしかいなかったので、荷物を全部まとめても風呂敷包三つにしかならなかった。朝からそれを持って新居へ赴き、二人揃って役所での手続きを終え、入用のものを揃えて家に帰って来た頃にはすっかり日も西に傾き始めていた。
元は商家の方の家だったそうだ。羽振りがよくなりもっと広いところへと越していったらしい。なんとも羨ましい話である。
「冨岡さんの荷物、それだけ?」
「ああ」
冨岡さんの荷物は私の荷物よりさらに少なかった。着替えと本が数冊、いくつかの小物。確かにこの量では広い屋敷をさぞかし持て余していたことだろう。
「というか苗字ももう冨岡さんだろう」
「あっ、そうでした」
「呼び名を変えないと」
「…義勇、さん?」
「…名前」
胸の奥がくすぐったいような、恥ずかしいような。照れ隠しにはにかんで笑うと、義勇さんも同じように笑ってくれた。
夜は二階にある部屋の一つに布団を並べて敷いた。義勇さんが右で私が左になるのはもはや定位置になりつつある。真新しい布団に包まれて義勇さんと隣り合って眠るのはなんだか不思議で、やっぱりこれは夢なんじゃないかと疑ってしまう。
「義勇さん」
なんとなく名前を呼んでみる。右側から、ん、と小さく返事が聞こえて、今ここに義勇さんがいることを教えてくれる。
「夜は眠れますか?」
「まあ、以前よりは。名前は?」
「私は、そうですね、今の仕事をするようになってからは、以前より」
蝶屋敷での朝はとても早かった。怪我人が運ばれて忙しくなるのは断然早朝だからだ。前の晩の仕事が長引いてろくに眠ることもできないまま早朝の救護にあたることもよくあった。だけどそれが辛かったかと問われればそうでもなく。元々寝付きのいい方ではなかったし、鬼殺隊に身を置いてからはむしろそんな生活が当たり前だった。今思えば、心のどこかがいつも張り詰めていたのだと思う。蝶屋敷で働く立場の私ですらそうなのだったから、夜通し戦いを強いられていた柱の義勇さんは、今も心のどこかに抱えているものがあるのだろう。それはきっと、私が触れられないような、奥の奥の方。
「ねぇ、義勇さん」
義勇さんの方に体を向けると、布の擦れる音で義勇さんもこちらを向いてくれたのがわかる。私は布団から右手を出して義勇さんの方へと伸ばした。
「手を繋いでもいいですか?」
「眠れないのか」
義勇さんが伸ばしてくれた手が触れて、私はその手をぎゅっと掴んだ。握ったというよりは、掴んだという方が正しかった。大きくて温かくて、たくさんの人を守ってきた優しい手。
「私、義勇さんが指輪をくれたあの日から、ずっと夢の中にいるみたいな気がするんです。このまま眠ってしまって、朝になったら、義勇さんがいなくなってしまいそうな気がして」
人って、幸せ過ぎるとこんな気持ちになってしまうんだ。広い大きな海で溺れてしまいそうな、どこか遠くへ流されてしまいそうな。私の言葉を聞いた義勇さんは何も言わず、返事の代わりに私の手を強く握り返してくれた。義勇さんの手に込められた力の分だけ、私の心は落ち着きを取り戻して安心する。お布団の温かさも相まって、少しずつ瞼が重くなってきた。
「どこにも行かないよ」
夢に落ちる直前、そんな声が聞こえた気がした。
義勇さんはそれからいつも眠る時に手を繋いでくれるようになった。寝付きの悪い私も義勇さんにそうされるといくらか深く眠れるようになって、それはまるでよく効くおまじないのようだった。
(210605)