Even if you forget anyone else

“急ぎ蝶屋敷に来られたし”

しのぶが義勇に宛てた文にはそれしか書かれていなかった。が、名前の身に何か起こったであろうことは明白だった。でなければしのぶがこのような文を義勇に送る謂れはない。

隊服に身を包みながら、義勇は以前にも同じようなことがあったことを思い出していた。あの時は確か、利き腕を負傷した名前の代わりにしのぶが文を寄越してきたと義勇は記憶している。何事もなければいいのだが。義勇は急ぎ水柱邸を後にした。



「記憶がない?」

蝶屋敷で義勇を出迎えたしのぶは、単刀直入に名前の状況を説明した。その顔には珍しく焦りの色が見受けられた。

「姉のことも私のことも、冨岡さんのことも覚えていませんでした。家族を亡くしたところまでは分かるようですが、鬼殺隊のことが記憶から抜け落ちてしまっています」
「…元に戻るのか?」
「わかりません。脳というのは人体の中でも解明されていない部分がほとんどですから」

屋敷を早歩きで進むしのぶの後を追う義勇は、思った以上に事は深刻であったと苦悶した。



名前は縁側に腰掛け、指先にとまる蝶をぼんやりと眺めていた。不意に蝶が手を離れ、名前がふと顔を上げる。穏やかに笑うしのぶの後ろに立つ義勇を見て、名前は小さく頭を下げた。その些細な仕草だけで義勇は全てを悟った。しのぶの話だけでは半信半疑であったが、今の名前には本当に記憶がないのだと。

「名前、さっき話した冨岡さん。少しお話ししてみたら?」

しのぶが名前にどのような話をしたか義勇にはわからなかったが、冨岡という言葉を聞いて名前は顔を赤らめ俯いた。しのぶは義勇に会釈してその場を後にする。

名前の膝の上には千代紙で作られた鶴や兜がたくさん置かれていた。義勇は名前の隣に腰掛けそれはと口を開いたが、名前は二人の距離の近さに驚き、赤くなったままの顔を上げることができなかった。

照れ隠しに身じろいだ拍子に、名前の膝から千代紙が一つ地面に落ちた。それを義勇が拾い上げる。

「折り鶴か」

名前は小さく頷いた。

「私が以前に作ったものをなほちゃん達が持ってきてくれて…何か思い出せたらって」

義勇がそっと折り鶴を手のひらに乗せ名前に差し出した。高揚した頬のまま、名前が義勇の瞳を見つめる。けれどその視線は羞恥心からすぐに逸れ、名前は躊躇いがちに義勇の手のひらの折り鶴を受け取った。

ひとつにまとめられていた名前の髪にはいつも黄色の蝶の髪飾りが揺れていたが、今は何もない。代わりに巻かれた白い包帯に、下ろされたままの髪が風に揺れ、義勇はその髪に触れようと手を伸ばした。が、寸でのところでその手を引っ込めた。

「本当に、覚えていないのか」

あまりにも悲しげな青い瞳に、名前は胸の奥がきゅっと締め付けられた。どうしてか、この人にそんな顔をさせてはいけないと、良心が激しく名前を責め立てた。

「ごめんなさい…」

そして義勇もまた、消え入りそうな声でそう呟いた名前に、今しがた自分がかけた言葉を激しく後悔した。謝らせたかったわけではないのだ。ただ、他の誰を忘れても、自分のことは覚えていてほしかった。

しばらくは二人言葉もないままだった。庭のあちこちでは音もなく蝶が舞っていた。


(210702)