機能回復訓練を始めてからしばらくが経ち、名前の体は記憶をなくす以前のように動くようになっていた。
「一度体が覚えたことは記憶を失っても取り戻すのは容易なようですね」
そもそもこの蝶屋敷で機能回復訓練に携わっていたのは名前の方だった。しのぶの説明に名前はいまいち実感が湧かなかったが、それでも不意に自分の意識を越えて体が動く感覚は不思議でもあり、同時に頭の奥深くに閉ざされたままの失った記憶にもう少しで手が届きそうな、ある種のもどかしさすら感じてしまう程だった。
「この分なら真剣を用いた鍛錬を行っても問題なさそうですね」
「はい」
「しかし、一つ困ったことがあります」
しのぶは人差し指を顎に当てて視線を右斜め上にやった。
「私の呼吸は蟲の呼吸です。花の呼吸については人に教えられる程精通していないのですよ」
「蟲の呼吸では駄目なのですか?」
「蟲の呼吸は少し特殊なのです。私にしか扱えません」
しのぶの言葉に、名前はそういうものなのかと納得せざるを得なかった。確かに呼吸というのは扱う人それぞれに適性というものがあり、その種類は多岐にわたるようだ。義勇は水、しのぶは蟲、蜜璃は恋。現職の柱達も各々扱う呼吸は違うようだし、ここに出入りする隊士たちもまた、多様な呼吸と刀の色をそれぞれ持っている。
「そこで冨岡さんに力を借りようかと思いまして」
「と、冨岡さん?!」
唐突に発せられた義勇の名に名前は頬を赤くする。記憶をなくしてからも以前と変わらず随分と親しくしているようだというのに、いつまで経っても初心な少女のような反応を見せる名前に、しのぶはついからかわずにはいられなくなってしまう。その赤い頬は、昔怪我の手当てで蝶屋敷を訪れた義勇を一目見て気に入ったはいいものの、顔を赤くするばかりで一向に声すらかけられなかった名前を彷彿とさせる。
「花の呼吸は水の呼吸の派生です。ひとまずは冨岡さんのところで水の呼吸について学んでください。花の呼吸については別の隊士を当たってみますので」
「はぁ…」
「そうだ、日輪刀をお返ししなければいけませんね。少し待っていてください」
どこか楽しげな笑みを浮かべるしのぶが喜んでいるのは、ようやく名前が刀を握るまでに回復したことか、それともいつまでも義勇の名に慣れないからかいがいのある自分のことか。この数ヶ月ですっかりしのぶの為人を理解した名前は、きっとその両方なのだろうと額に手をやり考えた。
それにしても、まさか義勇に稽古をつけてもらうことになるとは、と名前は一人小さく息を吐いた。以前も故郷への付き添いを願い出たことがあるが、今回の話とはまた訳が違う。しのぶと違いあまり物言わぬ性分である義勇が本当のところはどう思っているのか名前にはわからないままであったが、名前の目には義勇があまり争い事を好んではいないように見えた。一人鍛錬に打ち込む姿は見かけても、誰かと手合わせをする様子は見たことがない。そんな人が自分に稽古をつけてくれたりするのだろうか。
「お待たせしました。手入れの仕方についてはまた折りを見て」
預けたままの名前の日輪刀を手に戻ったしのぶが、にこやかな笑みを携えたまま戻ってきた。ゆっくりと名前に向けて差し出すと、名前は恭しくそれを両手で受け取る。すると屋敷の奥からパタパタと、駆け足の足音が一つ、真っ直ぐに二人の元へ向かってきた。
「しのぶ様!怪我をされた隊士の方がお見えです」
しのぶを呼んだのはなほであった。その声にしのぶが振り向き、すぐに踵を返す。
「わかりました、すぐに行きます」
その時だった。後方からがしゃんと鈍い音が響いたので、しのぶは慌てて再度振り返った。そこには両の手で頭を抱え地面に蹲る名前の姿があった。傍には今しがた落としたと思われる日輪刀が転がっている。しのぶはすぐさま名前の元へと駆け寄りその体を支えた。
「名前、大丈夫ですか?」
頭が痛むのだろうか、こめかみの辺りを抑えながら名前は小さく呻いていた。が、幾度目かのしのぶの問いかけにハッと顔を上げると、今度は両の手を何度も何度も握っては閉じを繰り返した。
「どうしましたか?どこか痛むのですか」
名前はゆっくりとしのぶを見やった。すると力が抜けたようにその場にペタリと腰を下ろし、荒れた呼吸を落ち着けるように大きく息を吸い込んで、胸に手を当て吐き出した。
「すみません、少し目眩がしただけです」
そう言うと名前はゆっくりと立ち上がり、落ちていた日輪刀を拾い上げた。そして振り返ることもなく、ふらふらとした足取りで自室の方へと消えていった。
(210818)