Her Secret

時を同じくして蝶屋敷の門を潜ったのは蜜璃だった。名前が記憶を無くした任務で討伐し損ねた鬼が義勇の担当地区に出没したということは、既に蜜璃にも共有されていた。念のためしのぶと名前にも知らせた方がいいかもしれないと気を利かせた蜜璃であったが、蝶屋敷の縁側に名前の姿は見当たらない。

「こんにちは。何か用ですか?」

縁側をキョロキョロとしている蜜璃を見つけたしのぶが声をかけると、蜜璃はパッと表情を変えしのぶの元へと駆け寄った。

「名前ちゃんはいるかしら?」
「今冨岡さんのところに行っていますよ」
「あら、相変わらず二人は仲良しなのね!」

蜜璃がきゃっと声を上げ、その赤い色を隠すように両手を頬に添える。一応は鍛錬という名目はあるものの、二人は仲良しという蜜璃の言葉をしのぶは否定する気も起きず、しのぶは口元を隠してくすりと笑った。

「名前に何か用ですか?言付けがあるなら預かります」
「しのぶちゃんと名前ちゃんに報告よ」

蜜璃が件の鬼が義勇の担当地区で目撃されたことを報告すると、しのぶははたと眉を顰めた。

「その話、もう冨岡さんはご存知で?」
「どうかしら…私もさっき報告を受けたばかりだけど、もしかしたらもう冨岡さんの耳に入っているかもしれないわね」

今名前は義勇の屋敷にいるはずだ。同じ報告を義勇が受けた隣で名前も聞いている可能性は高い。

記憶を無くす以前なら、名前がその報告を受けて取る行動は一つだ。必ず自らの手で汚名返上を名乗り出るだろう。けれど今の名前ならどうか。名前はどう判断するだろうか。

「あの、しのぶちゃん…?」

口元に手をやり考え込むしのぶに、蜜璃が恐る恐る声をかける。

「どうしました?」
「私、少し気になっていることがあって…」

あの任務の日、蜜璃はすっかり気が動転していた。名前があのような怪我をするということは到底考えられなかったからだ。つまるところそれは蜜璃の予測の範疇を越えた出来事であった。しかし時が経ち冷静になってあの夜の任務のことを思い返すと、名前の行動には不可解に思える点があった。

「名前ちゃん、腕は大丈夫なのかしら?」

遠目からははっきりとは見えなかったものの、蜜璃には技を繰り出そうとする名前の手から刀がすり抜けていったように見えた。あの時まだ名前は鬼の攻撃は喰らっていなかったはずだ。何故名前はあの時手から刀を離したのだろうか。それとも、刀を握っていられない事情があったのか。

蜜璃には心当たりが一つあった。以前名前が任務で利き手を負傷したときのことだ。あの時どうして名前が怪我をしたのか、理由はすっかり忘れてしまったが、しばらくは刀どころか筆も握れない程で、ひどく落ち込む名前を蜜璃は幾度も励ました。

あの時の怪我。完治したとは聞いてはいたが、もしかして今になって深刻な事態に陥っているのではないか。蜜璃はそう考えた。

「腕?頭の怪我ではなく、ですか?」

蜜璃の思いがけない言葉にしのぶは驚いて顔を上げた。蜜璃が一人思い巡らせた心当たりをしのぶに話すと、しのぶはより一層表情を曇らせた。

「それはまずいですね」

名前の腕の怪我は確かに完治したはずだ。しかし後になって後遺症が現れるということは珍しい話ではない。

しのぶは記憶がなくなる少し前の名前の様子を思い出していた。単独任務で怪我を負ったこと、それをしのぶにはひた隠しにしていたこと。もしも蜜璃の推測通り、利き腕に後遺症が残りそれを名前が隠していたとするならば、全ての辻褄が合うことになる。

名前は今水柱邸だ。義勇には名前を任務に出しても差し支えないと話してある。もしも件の鬼の報告を聞いて名前が帯同を申し出れば、義勇はきっと名前を連れて行くだろう。あの人は名前には一等甘いのだ。しのぶはそう考えた。

「艶、いますか」

しのぶが声をかけるとどこからともなく現れた鴉がしのぶの肩にとまった。

「急ぎ水柱邸へ。すぐに名前を連れ戻してください」

艶は一声鳴き声を上がると、すぐに大空高く舞い上がった。

しかし、艶が水柱邸にたどり着いた頃にはすでにそこはもぬけの殻であった。名前が件の鬼に出会すまで、あと少し。


(210912)