「お前、あの時の鬼狩りが。生きていたとは運がいい」
鯉口を握る手に無意識に力が入る。月明かりも届かない暗闇の中、鬼を前にした名前は大きく息を吸い込んだ。額にじんわりと汗が滲む。
義勇はいない。正確には姿を見せていないだけですぐ近くにはいるのだろうが、名前の目の届く範囲にその姿を確認することはできない。
「好きにやってみるといい」
入山する直前、義勇は名前にそう告げた。
「いいんですか?」
「ああ。但し退き際は俺が判断する」
義勇は自分を信じてくれている。だからこそああ言ってくれたのだ。その期待には必ず応えたい。はやる鼓動を抑えつつ、名前はゆっくりと呼吸を繰り返す。
寛三郎の導きにより、件の鬼はすぐに見つかった。前回と同じく、あまり人の立ち入らない孤山を根城としていた。辺りには血生臭さが漂っている。その臭いは名前に否が応でも家族を亡くしたあの夜のことを彷彿とさせた。
「ところでお前、腕は治ったのか、ん?」
思いもよらない鬼の言葉に、名前は一瞬こめかみの辺りを引くつかせた。
「言っただろう、俺は目がいいんだ。お前がその腕に何か隠していることもすぐにわかったぞ」
しかし名前は冷静であった。その瞳に宿った闘志は少しも揺らがない。一際大きく息を吸い込むと、鋭い眼差しで前を見据え、腰の刀に手をかけた。
「だから…お喋りが過ぎるって言ったでしょ」
仕留めるなら、一撃で──。名前は力強く地面を踏み込んだ。可能な限り重心を低くし鬼に向かって突き進む。まるで地を這うかのように一息で鬼の懐に飛び込むと、間髪入れず抜刀した。
「花の呼吸 肆ノ型 紅花衣!」
薄桃の刀身は下から上に大きく弧を描き、名前は狙い通り一太刀で鬼の頸に刃を振るった。
しかし。刃が鬼の頸に辿り着く直前、名前の刀はまたもその手をすり抜けた。刀は勢いのまま宙を舞い、傍の木の幹にぶつかり鈍い音を立て地面に転がった。その一連の様を見て、鬼は口角を上げた。
「治ってなかったんだな」
ニヤリと笑う鬼は振り上げたままの名前の手首を掴みあげ、名前の体は宙に浮かぶ格好となった。──ここまでか。名前は観念したかのように目を閉じ奥歯をぐっと噛み締めた。
「はっ、ざまぁねぇな。まあいい。鬼狩りを喰うのは初めてだ。骨の髄まで味わってや、る…」
最後まで言い切らぬまま、名前の腕を掴んでいた鬼の手から力が抜けた。名前が目を開いたときには、既に鬼の頸と胴体は別たれた後であった。青い刀身が視界の端で鈍く光る。思わず見惚れてしまう程に美しく無駄のない太刀筋は、義勇そのもののようだと名前は思った。
「ご自慢の目に頼りすぎだ。背後の気配に気付きもしないとは」
義勇の吐き捨てるような台詞を聞いても尚鬼は己の身に何が起こったのかを理解できていない様子だった。塵のように消えゆくその哀れな姿を義勇は横目で確認すると、刀についた血を払い鞘に収めた。そして名前に振り返る。
「名前、お前…」
義勇は今しがたその目で見た光景を思い出していた。先刻名前が繰り出そうとした技、あれは確かに花の呼吸だった。今の名前には不可能なはずだ。つまりそれは、ただ一つ明白な事実を義勇に元に晒していた。
「記憶が戻っていたのか」
名前は義勇に背を向けるようにして、落ちた日輪刀を拾い上げた。そしてゆっくりと振り返り、義勇に向かって一つ頷く仕草を見せた。その頬にはとめどなく溢れる涙が幾筋も流れ落ちていた。それは義勇にとって初めて見る名前の涙だった。
「義勇さん、私…もう刀は握れない」
震える声でそれだけ絞り出すようにそう告げると、名前は堪えきれず嗚咽混じりに涙をこぼした。静かな夜の山に名前の啜り泣く声だけが響き、しばらくは二人立ち尽くしたままだった。
(210917)