誕生日には真白な花束を

朝目が覚めると、ガラスで出来た一輪挿しに、白い花が一本生けてあった。その花を見て、今日が何の日なのかを思い出す。台所では名前が朝餉の支度をしていた。いつもと変わらない朝の風景だ。

「義勇さん、おはよう」
「ああ」

朝の光に透けた少し茶色い髪に触れようと手を伸ばすと、その前に名前の手がこちらに伸びてきた。少し背伸びして、白い指が俺の髪を撫でるように梳く。

「ふふっ、義勇さんひどい寝癖ね」
「そうか」
「顔を洗ってきてね、もう準備できるから」

そう促されて台所を後にする。いつもと変わらないと思ったけれど、そうではないようだ。今日の名前はよく笑う。

痣の話をしたとき、名前は泣いていた。何で、どうして、と小さな子どものように繰り返す名前を、一晩中あやすように抱いていた。夫婦になることは諦めた。名前には自由に生きてほしかった。幸せになってほしかった。

夜更けに一人泣いていることも知っていた。好きに生きるよう何度も伝えた。それでも名前は頑として首を縦に振らず、それどころか意固地になって側を離れようとしなかった。

二月のある日、名前は白い花を一輪手に帰ってきた。どこからか引っ張り出してきたガラスの一輪挿しにそれを生け、細い指で花びらをそっとなぞった。日々を泣き腫らして過ごしていたはずの名前はそこにはなく、慈しむように花を愛でるその横顔はただただ美しかった。

「義勇さん、私幸せなの」

悲しいとか苦しいとか、そういう感情をどこかに落としてきたような晴れやかな笑顔だった。もう随分とそんな顔は見ていなかったが、俺はそんな風に笑う名前が好きだったことを思い出していた。

「先のことばかり考えて、今目の前の幸せから目を逸らして、不幸になる前から不幸になっていた。惨めだよね。私は、義勇さんの側にいられるだけでこんなに幸せなのに」

残った左手を名前が両手でそっと持ち上げた。ほんの微かに、そこはかとなく清々しいような花の匂いがした。

「これからもずっと、義勇さんのお誕生日を笑ってお祝いしたいの」

それから名前は、毎年その白い花で誕生日を祝ってくれる。待雪草というらしい。花の良し悪しはわからないが、美しい花だと思う。

誕生日には好きなものを食べて、好きなことをして過ごそうと名前は言う。鬼殺という生業から離れた今、毎日好き勝手に暮らしていると言うと、だったらうんと好きなことをしようと笑った。一度は諦めた未来を今こうして共にいられる事実は、俺にとって何にも変え難い幸せだ。願わくば、いつか来る最期の時まで二人一緒にいられたらいいと思う。

顔を洗って部屋に戻り、今度こそその髪に触れたくて手を伸ばした。細く柔らかい髪が指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていく。唇に唇を寄せて静かに重ね合わせた。うんと好きなことならばこれがいい。

「お誕生日おめでとう、義勇さん」

一輪挿しの花も笑っている気がした。二月八日、今日は俺の生まれた日だ。

***

年度の始めにいつも出入りしている花屋の業者の担当が変わった。からっと笑った顔が印象的な人だ。名前は確か、

「あっ、冨岡先生!」

首から下がった入校許可証に書かれた、苗字名前という文字。彼女によく似合った名前だと思う。

うちの学校は理事長の意向もあってかとにかく随所に花が多い。玄関や理事長室はもちろん、行事ごとに豪華絢爛な花であちこちを飾られるのはもはや恒例だ。今は専ら卒業式シーズンで、その打ち合わせも兼ねてかよく校内で彼女を見かける。誰にでも気兼ねなく話しかける性格のようで、こうして声をかけられることも少なくない。

「どうも。花の交換ですか」
「はい!それから卒業式のお花の打ち合わせで」

台車に乗せられた色とりどりの花達を見やる。その台車を押す手がいつも以上に荒れているようだった。以前に指先から血が出ていたのを見て絆創膏を渡したことを思い出す。花屋とは体力勝負なのだと笑い、恥ずかしそうに指先を隠していたが、彼女の指は綺麗だと思う。働く人の手は美しい。

「冨岡先生は、これから授業ですか?」
「ええ、まあ」
「頑張ってくださいね!」

当たり前の仕事をこなすだけなのに、満面の笑みでそう言われるとどこか気恥ずかしい気持ちもする。軽く会釈をしてその場を離れ、突き当たりの廊下を右に曲がったところで、後ろからパタパタと小走りするスリッパの音がどんどん近づいてきた。

「冨岡先生、待って!」

先程別れたはずの声の主の言葉に振り返ると、パッと差し出されたのはいくつもの白い花が綺麗にまとめられた、小さな花束だった。

「冨岡先生、今日お誕生日って聞いたので、よかったら…」

そんなことすっかり忘れていた。そうか、今日は二月八日か。確かに、よくよく考えてみれば今朝方職員室で見たカレンダーや、教室の黒板に書かれた日付は俺の誕生日を指していた。まさか彼女に一番に教えてもらい、そして祝われるとは。

「クリスマスローズっていうお花です。なんだか冨岡先生にとっても似合う気がして」

冬の時期に咲くバラのように美しい花、という意味なのだと彼女が教えてくれた。手渡された花束から、そこはかとなく清々しい匂いが漂って、どうしてかその匂いがひどく懐かしく思えた。

「あ、男性に花束は…ご迷惑でしたでしょうか?」
「いや、そんなことはない」

花に詳しいわけではないが、名前の通り美しい花だと思った。ふと、遠い昔にもこれと同じ花を誕生日にもらったことがあるような気がした。それをくれたのは、果たして誰だったのか。

「綺麗な花だ。ありがとう」

そう言うと彼女はとても満足気に笑った。窓から差し込む陽の光が彼女の長い髪を茶色く透かしていた。その髪が風にふわりと靡いて、漂った懐かしい匂いが心の奥の方を優しく満たしていくようだった。

「お誕生日おめでとうございます、冨岡先生」

今日は花瓶を買って帰ろう。この花に似合う、綺麗なガラスの花瓶を。


(210217)