星の隠れ家

新任の苗字先生は、なんというか、色で例えるならピンクだ。長く茶色い髪はいつもゆるく巻かれていて、机の上のマグカップにはいつも甘そうな色をしたコーヒーが注がれている。細い指の先にある爪はいつもピカピカに磨かれていて、少し高いヒールで器用に歩く。男の自分とは何もかもが違う生き物のようだ。

彼女は同じ社会科の教員で、同じ歴史の専攻ということもあり、彼女の教育担当を任された。小綺麗に整理整頓された隣のデスクからはいつもそこはかとなく甘い香りが漂っている。点々と置かれた女性らしい小物に似合わず戦国時代が好きらしく、つくづく女性は難しいと思う。

「すみません、遅くまで付き合っていただいて…」
「いや、これくらい構わん!」

新卒採用の彼女には教師はおろか社会人の経験というものがない。故に何をするにしても一から十まで説明してやらねばならない。自分にもそういう時期があったものだと懐かしくもなるが、当の本人は毎日難しい顔をして教科書やパソコンと睨めっこを繰り返している。来週からは彼女にもいくつか授業を受け持ってもらうことになっているので、今は専らその準備に勤しんでいる。

「出来ました!プリントアウトするので明日にでも目を通してもらってもいいですか?」
「ああ、お疲れ様」

上書き保存した資料のデータの印刷ボタンを押し、これで帰れるという解放感からか、プリンターに向かうヒールの足音がどことなく跳ねている。束になった紙をうさぎの形をしたクリップで止め、お願いしますと彼女が頭を下げ俺のデスクに端に置いたその時、きゅーっと腹が鳴る音がした。いや、俺じゃない。俺の腹はそんな可愛い音では鳴らんし、そもそも今そこまで腹は減っていない。俺の隣に立ったままの彼女を見上げると、両手で胃の辺りを押さえながら少しばかり顔を赤くした彼女と目が合った。

「す、すみません」
「いや、飯でも食って帰るか!」
「あ、はい!」

彼女がにこりと笑ったので、デスクの足元に放り投げていた薄いビジネスバッグを手に取って立ち上がった。

校舎を出るころには夜の8時を回っていた。誰もいない夜の学校を二人揃って後にする。

「何か食べたいものはあるか?」
「ラーメンがいいです!」

苗字先生は夜の星のようにキラキラとした瞳をこちらに向けてそう言った。

「たくさん働いたあとのラーメンは美味しいですから!煉獄先生ラーメン好きですか?」
「ああ、好きだが」
「私もです!美味しいラーメン屋さん知ってるのでそこに行きませんか?」

てっきりお洒落なレストランやカフェをリクエストされるのだろうと構えていたら、思いがけない返事と即答ぶりに不意をつかれた。その細い体のどこにどんぶり一杯のラーメンが入るのか甚だ疑問だが、本人が嬉しそうにそう言うので二つ返事で了承した。

そうして苗字先生に連れられてやってきたラーメン屋は、入り口に赤い暖簾がかけられた、ごくごく庶民的なラーメン屋だった。慣れた具合に店内を進み壁際のテーブル席に座るその姿に、意外という言葉以外何も思い浮かばない。

「煉獄先生は何にしますか?」

白い壁にいくつかかけられてあるメニューに一通り目を通す。目新しい何かがあるわけでもない、至って普通のラーメン屋だ。

「私はチャーシューメンにします」
「じゃあ同じものにしよう!」
「すいませーん!」

間髪入れず彼女が右手を上げ、厨房の男性に注文を伝える。職場の隣の席でいつもふわふわと笑っている苗字先生は最早どこにもいないようである。

子どもの頃からよく家族で来るのだと彼女は笑った。いきつけのラーメン屋などあるようには見えない彼女は、カバンから紺色のシュシュを取り出して長い髪を結んだ。露わになった耳には、小さな星の形をしたピアスが揺れていた。

二杯のチャーシューメンはすぐにテーブルに運ばれてきた。割り箸を割って手を合わせ、湯気の立つどんぶりから麺を一口啜る。

「うまいな!」
「よかったぁ」

この店の外観のとおり、何か特に目立つところがあるわけでもない、いたって普通のラーメンではあるものの、癖のないスープとそれに絡む麺は本当にうまいの一言に尽きる。彼女はというと、俺の感想に胸を撫で下ろし、テーブルの隅に無造作に置かれたレンゲを一つ手に取った。そして慣れた手つきでそのレンゲの上にスープと一口分の麺を乗せ、これでもかというくらい息を吹きかけた。

「すみません、私猫舌で…もうちょっと冷めたら普通に食べられるので気にしないでくださいね」

そう言って彼女はレンゲのラーメンを器用に口の中に運んだ。その見慣れない動作に、ひょっとして男の俺に気を遣ってラーメン屋に行こうなどと提案したのではないだろうかと考えた。でなければ猫舌の人間がわざわざラーメン屋に誘ったりするだろうか。そんな胸中など知る由もないまま、苗字先生は口にしたラーメンに大袈裟なほどにおいしい!と舌鼓を打っている。そしてまたレンゲにラーメンを一口分乗せ、息を吹きかけ、口に運び、美味しいと喜び…どうやら気を遣ってラーメン屋を選んだわけではないらしい。

結局俺がラーメンを食べ終わっても、苗字先生のどんぶりにはまだ半分ほどのラーメンが残っていた。

「ごめんなさい、食べるの遅いですよね」
「いや、ゆっくり食べるといい!」

苗字先生はぺこりと頭を下げラーメンを啜った。その頃には一口ずつよそって食べるほどラーメンは熱くはなかったらしく、レンゲはどんぶりの端で出番を失っていた。

「しかし意外だ!苗字先生がラーメンが好きだったとは」
「ふふっ、よく言われます」

少し照れたように口元を隠して笑うと、同じ角度で耳元のピアスも揺れた。指先の爪も一つにまとめられた茶色い髪もいつもの苗字先生と変わらないはずが、今はどこか違った人のように見えるから不思議だ。

「人は見かけによらないってことですね」
「そういうことだ!」
「煉獄先生、私のこともっと知りたいって思ってくれましたか?」

少し上目遣いにこちらを見る苗字先生の頬がほんのりとピンク色に染まっていた。けれどピンク色だとばかり思っていた彼女の髪も指も唇も、気づけば知らない色だ。巨大な迷路に迷い込んでしまったかのような幻想の中で、確かに手を差し伸べているのは彼女だけだ。迷い込ませておいて、これだから女性というものは。

「私は煉獄先生のこと、もっと知りたいです」

その微笑みに俺ができることといえば、白旗をあげることくらいか。頷くことすらできないままにじっと見つめた瞳が細く弧を描き、口角の上がった口元に、一体この笑顔の裏側にどんな本音を隠し持っているのだろうと思ったが。まあ、このまま翻弄されるのも悪くないのかもしれない。

食べ終えた彼女がシュシュを取って髪を解いた。茶色い髪がぱさりと落ちてピアスは見えなくなってしまったが、蛍光灯の光に照らされたそれは、奥の方で確かに光り輝いていた。


(210321)