透明な朝

暦の上ではとっくに春を迎えたというのに、霧雨の降る早朝の空気はまだ冷たい。吐く息の白さに、帰路の途中で寒がりな恋人のことを思う。今ごろ部屋の隅で小さく丸まっているのだろうか。

門を潜りいつもの部屋の戸を引くと、想像とは裏腹に彼女は隊服を身に纏い、腕に自身の鴉を休めさせその体を撫で回している最中だった。

「任務か」

声をかけると驚いたのか、鴉は名前の腕から離れ、少しだけ開いたままの障子の隙間から外へと飛び立っていった。名前が小さくあらと呟く。

「義勇さんのこと苦手みたい」
「別に取って食いはしない」
「ふふっ、そうね」

名前は座り込んだままぼんやりと、隙間から見える外の景色を眺めている。細い細い糸のような、春の終わりを告げる雨。

「雨って嫌ね。今日は義勇さんと一緒にいたかったのに」

正面に腰掛けて肩に落ちる髪を撫で、さっきまで鴉を撫で回していた名前の手を取る。思った以上に冷えた指先は力なくされるがままで、またいくらか痩せたように思う。

「飯は食ったのか」
「…どうだったかな」
「食わねば体に障る」
「そうよね、わかってる」

親しくしていた人間が亡くなると、名前はいつもこうだ。露骨にものを食べなくなり、任務への足取りも重くなる。花柱の胡蝶とは特に親しくしていただけに、未だその胸の傷は癒えぬようだった。

鬼狩りなど、全く名前には向いていない。人一倍優しい彼女は人一倍傷つきやすく、悲しみを真正面から受け止めては全てその背に背負い込もうとする。そんなこと、この理の中では何の意味も持たないと知っていても。

「義勇さんの手、あったかいね」
「名前が冷たすぎるんだ」
「そっか」
「頼むから」
「うん、ごめんね」

許されるのならば、このまま小さな部屋に閉じ込めてしまいたい。名前が好きだというものだけを揃えて暮らしていきたい。鬼を狩るのが嫌だというなら代わりに刀を振るったって構わない。だけど、伽藍堂のようなこの部屋は二人でいるには広すぎて、名前がそんなことを望んでいないこともよくわかっている。

繋いだ手は少しも温まらない。名前は小さく息を吐いた後、正面からこちらにもたれかかってきた。葡萄色の羽織に顔を埋めて、何かを確かめるように大きく息を吸い込む。

「行くなって、言ってくれないの?」

どんなに二人でいたって何も生み出せない俺たちが、いたずらに時間を重ねたところで、その先に待っているものは一つだ。それでも一緒にいたいと思う。好きだから。大切に思っているから。それだけでは、共にいる理由として不足なのだろうか。

「嘘だよ。行ってくるね」

ゆっくりと顔を上げた名前はいつものように笑っていた。繋いでいた指は簡単に解けてしまって、結局何も言うことができなかった。障子の隙間からは鴉がせっつくようにこちらを覗いていて、唇を寄せることすら叶わなかった。


(210414)