初恋

数日続いた雨はいつのまにか止んでいて、東の空を見上げた名前は思わず眩暈を覚えた。久方ぶりに見た陽の光と、夜通し続いた鬼との闘いでの疲労と、そして今目の前にいるのが他の誰でもない義勇だという安心感は、呆気ないほどに名前の緊張の糸を解いた。

「大丈夫か」

ふらりとよろけた名前の腕を咄嗟に義勇が掴む。掴んだ名前の腕からは鮮血が滴り落ちていて、義勇の手が赤く染まっていくのを見た名前は、ようやくごめんとだけ言葉を発した。

後手に大きな岩があったので、義勇は名前をそこに座らせた。懐から手ぬぐいを取り出し傷口の少し上できつく縛る。陽が差して辺りをぐるりと見渡せば、そこは一面血の海であった。

「直に隠がくる」
「うん」
「歩けるなら蝶屋敷まで送っていこう」

名前はぼんやりとする頭でどちらがいいのかを思案した。どちらを選んでもしばらくは義勇と共にいられるので蝶屋敷まで歩いてもよかったが、ここ数日の連戦で酷使していた体は予想以上に悲鳴を上げていた。

「もう少し座ってていいかな」

義勇は名前の返事に一つ頷いて隣に腰掛けた。二人で座るには丁度いい大きさの岩だった。

自身の言葉足らずを意に介さない名前の隣は義勇にとって心地良かったし、喧しいのが苦手な名前もまた、義勇の隣を好ましく思っていた。そして己の心の機微に疎いという点においても、二人はよく似ていた。この関係に名前をつけようなどとは露も思っていなかった。互いの隣は心地良いということ、それだけで十分だと二人は思っていた。

「義勇くん」
「何だ」
「花が咲いてる」

小道の向こうに白く小さな花がいくつか群れて咲いているのを見つけた名前は、震える手でそちらの方を指差した。小道のあちこちは赤い血に塗れていたが、その花たちだけが何の色にも染まっておらず、陽の光を浴びて輝いているようにも見えた。

「あれは何の花だろう」
「さあな」

思った通りの返事であることに、名前は安堵した。そうしてしばらくは二人何の言葉も持たぬまま、その白い花をぼんやりと見つめていた。

名前は、義勇が積み重ねてきた時間のそのほとんどを知らない。だけど今、二人静かにこうして同じ花を見つめている。ただそれだけのことが、どうしてこんなにも自分の心を安らかにさせるのだろうか。自身の瞼が重くなるのを感じながら、名前は義勇の隣でそんなことを考えていた。

「…名前?」

とんと名前の頭が義勇の右肩にもたれてきたので、義勇は一瞬肝を冷やした。けれどもすぐに規則正しい穏やかな息遣いが聞こえてきて、義勇は胸を撫で下ろした。名前の体を動かさないようそっと傷のある腕を見てみると、既に出血は止まっているようだった。

さてどうしたものか。義勇は視線を花へと戻し考える。どのみち蝶屋敷まで送ってやらねばなるまい。もう間もなく隠も到着する頃だろう。義勇は細心の注意を払って名前の体を横向きにして抱えた。よほど疲れていたのだろうか、名前はすやすやと気持ち良さそうに眠ったままである。

「水柱様」

振り返ると隠の一人が義勇からの指示を乞うためにやってきた。後方には到着した他の隠が早速事後処理の準備を始めている。

「俺は名前を蝶屋敷へ送り届ける。ここは頼んだ。晴れているし鬼の心配はないだろう」
「かしこまりました」

隠が下がるのを待って義勇は静かに歩き始めた。途中しゃがんで名前が指差した小道の向こうの花を二、三手折った。



「お目覚めですか?」

ハッと目が覚めると、名前の体は蝶屋敷の寝台の上であった。勢いよく半身を起こすと、声をかけたのはたまたま部屋に居合わせたしのぶであった。

しまった。随分と、それもぐっすりと眠りこけていた。名前は慌てて眠る前の記憶をたぐり寄せる。昨夜の任務の場所は何処だっただろうか。頭の中のもやを払うように思い出そうとするも一向にはっきりとしない。

「腕の怪我は大したことはありませんが…名前さん、食事はきちんと摂っていますか?」
「あ、いえ…ここのところ任務が忙しくて」
「でしょうね。少し貧血気味のようです。今晩はここに泊まっていってください」

不甲斐ない、任務にかまけて自身の体調管理を疎かにしてしまうとは。しのぶの言葉に名前はため息をつきたくなったが、寸でのところでどうにか呑み込みしのぶに頭を下げた。

「すみません、お言葉に甘えさせていただきます」
「いいえ、お礼なら冨岡さんに」

冨岡というしのぶの言葉で名前はようやく昨夜の共闘相手を思い出した。ということは、ここまで自分を抱えてきたのは…。思案を巡らせて行き着いた答えに、今度こそ名前は大きくため息をついた。眠りこけたうえに義勇の手を煩わせてしまうとは、情けないことこの上ない。

「ふふっ、似合わないですよね、冨岡さんに花なんて」

可笑しそうに笑うしのぶが指差す先には、小さなガラス瓶があり、そこには小さな花がいくつか生けられていた。それは確かに、名前が義勇にその名を尋ねたあの白い花だった。

名前は心の内にじんわりと、柔く温かい何かが広がっていくのを感じた。その感情を表す言葉を、名前はまだ知らない。

ガラス瓶の下には小さな紙切れが無造作に置かれていた。名前が手を伸ばしてそれを広げると、サクラソウとただそれだけ、よく知った美しい文字が並んでいた。名前は一瞬だけ頬を緩めると、丁寧にそれを折りたたみ、大事そうに隊服の胸ポケットに仕舞い込んだのだった。


(210507)