遥か

あれはまだ鬼殺隊に入隊して間もない頃。慣れない鬼との連戦に負傷し、近くの藤の家紋の家に厄介になることになった。そこの主人は代々続く医者の家系で、その主人にしばらく安静にときつく言い渡されてしまった。

「肋が三本も折れてるんですよ!連戦と仰ってましたが、鬼狩様の任務とはいつお伺いしても過酷なものですね。私とそう年端も変わらないとお見受けしますが…」

厄介になっている間、主に身の回りの世話を焼いてくれたのがそこの娘だった。この娘がまあ朝から晩までよくもそんなに話すことがあるもんだと感心するほどに饒舌だった。立板に水、口から先に生まれてきたというのはこういう奴のことを言うのだと思った。やれ庭の梅の蕾が綻んできただの、隣の猫が台所から焼き魚を持って逃げてっただの、用を遣わされ部屋にやってくる度に必ず何か話していく。

「うちは兄弟が多いのですよ。子どもは多いほどいいというのが両親の性分でしてね。兄が二人いて、私の下にはまだ四人ほど弟妹がおりますが、梅雨が明ける頃にはまた一人増える予定なんです」

奥方のお腹が丸く膨らんでいたのを思い出す。娘の名前は名前と言った。

「明朗快活、簡潔明瞭が我が家の家訓なんです。うちは兄弟が多いでしょう?あんまりじっくり話を聞いてくれる人もいないんですよ。だからこうやって長期療養の患者さんや鬼狩様が来るとついつい喋り過ぎてしまうんです。ごめんなさいね」

理由はごもっともだが、それにしてもこうも話すネタにも尽きないのは見上げたものである。ちっとも悪びれた様子もなく笑うその顔は、向日葵が咲いたようにパッと明るい。喧しければ言ってくれと彼女は言ったが、無下にしなかったのは彼女の声色がどこか心地よかったからだ。秋の夜長に芒の上をさらさらと撫でていく風のような、穏やかさと少しの憂いを孕んだ不思議な声色だった。

「冨岡さんはご兄弟はいらっしゃるんですか?」
「…姉がいた」
「…そうですか。冨岡さん、端正なお顔立ちをしてらっしゃいますし、姉上様もさぞかしお美しかったことでしょうね」

今ならば、年頃の娘などこんなものだろうと理解しているつもりだ。むしろ医者の娘とあって教養もあって機転も利く。けれども歳の離れた姉も、記憶の片隅にある母も、名前とはいくらも性分が違った。鬼殺隊の女性隊士というものもそれぞれにやむを得ない事情を抱えた人が多く、あっけらかんと笑う名前のような心持ちの娘とはそれまで無縁だった。いつも曇りない笑顔を向けられても気の利いた返事の一つもしてやれなかった。まあ、それは今も変わらないのだけれど。

「そうだ冨岡さん!冨岡さんの好きな食べ物は何ですか?今夜の献立の参考にさせてくださいな」
「…特にない」
「そうですか、困りましたね。ああ!じゃあ鮭はお好きですか?昨日父がこんなに大きな鮭をもらってきましてね!まだ夜は冷えますし、大根と一緒に煮たらおいしいと思うのですがどうでしょう?」
「別に嫌いじゃないが…」
「ならそうしましょう!今日は母が悪阻で伏せっていて…冨岡さんのお口に合うよう頑張りますね」

そうして夕刻になり彼女が部屋まで持ってきた夕食は、今まで食べたどの食事よりも美味かった。何度もおかわりを寄越して終いには鍋が空っぽになったようで、名前はにこにこと笑いながらまた作りましょうねと言った。それからしばらくあの家には世話になったが、何度か作ってもらった記憶がある。



二度目に彼女に会ったのは、それから何年も経った後だった。柱になり、自分の担当地区にあの藤の家紋の家があった。久方ぶりにその門を潜ると、洗濯物を干している名前の足元で、小さな坊が戯れついていた。あの時奥方のお腹にいた子だろうか。名前はこちらに気づくとすぐに思い出したような顔をして、その子を抱えてこちらに駆け寄ってきた。

「あらぁ!本当にお久しぶりですね!冨岡さん、随分ご立派になったみたい。あの時母のお腹にいたのがこの子ですよ。覚えてらっしゃいますか?」
「ああ」
「今日は泊まっていかれるんですか?お食事だけでも食べていってくださいな。また鮭大根作りますから」
「頼む」

姦しいのも笑顔が明るいのも心地よい声色も、彼女は何一つ変わっておらず、それが何故か自分の心を安堵させた。料理の腕も変わらず、出された鮭大根は格別に美味かった。

三度目四度目もそのような感じで過ぎていったが、五度目に会った時は、名前の様子がいつもと違っていた。

「家を出ようと思っているんです。今父に奉公先を探してもらっていまして」

名前は働き者だ。口は無論のこと、同じように手も休むことなく動いている。縁側の日当たりのいいところで着物のほつれを繕っていたようで、たまたまそこを通りかかるといい話し相手が来たとでも言わんばかりに口を開いたが、その声色にはいつも以上に憂いが含まれていた。

「下の弟妹たちも随分大きくなりましたからね。一番下の子にはまだまだ手がかかるんですけども。でもまあ、ここは人手も足りてきましたし、藤の家としてのお役目もございますから。ここにいるよりは外で働いて仕送りでもした方がいささかいいような気がしましてね」
「そうか」
「…実は少し前にお見合いをしたんです。でも私ほら、こんな喧しい性分でしょう?緊張してたのもあって、お見合いの席でいつも以上に喋ってしまいまして…。お相手の方は大人しそうな人だったから、こんな喧しい娘は遠慮したかったんでしょうね、後日お断りされてしまいました」

ふと思ったのは、名前にどこか知らないところへ嫁に行かれるのは困るということだった。眉尻をハの字に下げて笑うそんな顔見たこともなかったし、ふっとついたため息を拾ってやりたいような気もした。何よりあの鮭大根が食えなくなるのは、とても困る。

「ならば嫁に来てくれないか」

気がつくとそんな台詞を口にしていた。しまったとは思ったが、名前のそのビー玉みたいな瞳が大きく見開かれ、驚きに言葉も出ない様を見て、ああこの娘も人並みに黙りこくることがあるのだなと、頭の片隅で呑気に考えていた。

耳まで赤く染まり、戸惑いに揺れる瞳がふっと逸れ、名前は何かから隠れるように両の手のひらで己の頬を覆った。しばらくはそのままだったが、ぽつりと消え入るような声で、不束者ですがと呟いたので、心の底から安堵した。



そうして彼女は今日も隣にいるのだ。今日も今日とて、今朝方見た桜の花はもう七分咲きだとか、向かいの奥さんがおめでただとか、相も変わらず四方山話に興じている。

「義勇さんどうしたの?なんだか今日は機嫌がいいみたい」

庭で洗濯物を干す名前の後ろ姿を見て、そんな馴れ初めをぼんやりと思い出していた。それはもう随分と前の出来事なのに、昨日のことのようにも感じられる。

この数年の間に俺は随分と変わってしまった。鬼殺隊はなくなり、片腕を失い、長かった髪をばっさりと切った。目紛しく変わっていく日々の中で、名前だけが何も変わらない。

「いや、今日も愛しいと思ってな」

静かに歩み寄ってその頬に触れれば、触れたところからじわりと赤く染まる。照れると黙ってしまうところも、あの頃と変わらないのだ。

失ってばかりいた人生の中で、ただ一つ握りしめていた。慈しむように唇を重ねれば、遠く向こうから春の香りが漂った。


(210609)