のうぜんかつら

その昔、私のご先祖様を鬼から守ってくださったのは、当時の水柱様だった。ご先祖様は命を救っていただいたこと、鬼狩りという生業にいたく感銘を受けたそうで、藤の家紋を掲げ水柱様の身の回りのお世話を買って出たという。以来我が家は代々続く藤の家紋の家系だ。そして通常の藤の家紋の家としての役目とともに、代々の水柱様の世話役も勤めてあげてきた。

年号が大正に変わったのを機に、私は水柱様のお屋敷でのお仕事を母から引き継ぐこととなった。これから毎日水柱様のお屋敷に通いお食事の準備や屋敷内の掃除などを行うのだ。今の水柱様は冨岡義勇様という、若くして柱の座に上り詰めた非常に優秀なお方で、初めて水柱様のお屋敷に勤めることとなった日は、決して粗相のないようにと父母にきつく言い渡された。

鬼は夜にしか出ないそうで、鬼殺隊の隊士の方々は日中は体を休めたり鍛錬をなさったりされている。冨岡様も通常そのように過ごされているようで、私がお屋敷で女中の仕事をしている間はほとんど顔を合わせることはなかった。面と向かってお話をさせていただいたのは最初にご挨拶をしたときだけだった。

私はとても不安だった。私が作る食事は冨岡様のお口に合っているのか、風呂の加減はどうか、掃除で行き届いていないところはないか、気が付かないうちに粗相をしているのではないか。冨岡様は屋敷で会ったときも小さく頭を下げるだけで何かをお話になることは滅多にない。というか、声を聞いたのは最初に「冨岡義勇だ」と名乗られたあの時だけのように思う。食事にしろ掃除にしろまだまだひよっこの私が母の腕に敵うわけもなく、暇を言い渡されてはご先祖様に顔向けできないと、毎日内心ひやひやしていた。

とうとう我慢できなくなった私は、ある時冨岡様に文を書き置くことにした。文というよりは「何か御用命があれば遠慮なくお申し付けください」という旨だけを書いた、宛名もない書き置きのようなものだった。それをいつもお夜食にと作り置くおにぎりを入れた飯行李の横に添えて、その日は屋敷を後にした。

翌朝屋敷を訪れると、冨岡様はまだ自室でお休みになられているようだった。先に米を炊く準備をしようとお台所に行くと、空の飯行李の上に二つに折り畳まれた紙が置かれていた。広げてみるとそこには流れるような美しい文字で、

『貴方の作る握り飯は握り加減も味付けも非常に良い塩梅で美味いと思う』

と書かれてあった。冨岡様がそのように思ってくださっていたとは夢にも思っていなかったので、私は嬉しいやら気恥ずかしいやら、色々な思いが綯交ぜになって胸がはち切れそうだった。冨岡様からのお返事は大事に懐にしまって、折りを見ては取り出して読み返してとしていたので、その日はいつも以上に仕事に時間がかかってしまった。

それから私は時折冨岡様へ文を送るようになった。相変わらず宛名もない、二、三言で終わる短い書き置きのようなものだった。好きなお食事は何ですか、とか、風呂のお湯加減は熱いのが好きですか、とか、他愛もないことだった。そして冨岡様はいつもその書き置きに、同じように短い言葉を律儀に返してくれていた。そのささやかなやり取りは、いつも私の心のうちを温かくしてくれるのであった。


夏の盛りのある日、庭の竹垣に這っていたつるから鮮やかな朱色の花が咲き乱れた。ノウゼンカズラの花だったのかとそこで初めて気がついた。とても美しいけれど、立派な竹垣に巻きついているのはどうにも気になる。冨岡様はここにノウゼンカズラの花があることをご存知だろうか。水柱様のお屋敷はお庭も広く、冨岡様が庭を散策しているところはあまりお見かけしない。

私が勝手に剪定しては差し出がましいかと思い、いつものように手紙に、庭のノウゼンカズラの花はいかがいたしますかと書いておいた。翌朝お返事がいただければその日のうちに手入れしてしまおうと考えていた。

ところが、翌朝にはいつもあるはずの冨岡様からのお返事がない。私は顔から血の気が引くのを感じた。もしかしたらあのノウゼンカズラは冨岡様の思い入れのあるものだったのではないか。いや、手紙のことではないかもしれない。何か気が付かぬうちに粗相をしでかしたのではないかと、慌てて昨日の自分の行動を朝から順に思い出していた時だった。

「ノウゼンカズラというのは」
「ひっ」

突然背後から声をかけられ、驚きで思わず肩が大きく跳ねた。恐る恐る振り返ると、そこにいたのはまごうことなくこの屋敷の主人である冨岡様その人だった。私があんまりにも驚いた顔をしていたからか、冨岡様も少しばかり目を開いていた。

「…驚かせてしまってすまない」
「い、いえ!こちらこそ…」

文のやり取りはあれど、このように面と向かって声をかけていただくのは初めてのことだった。隊服をお召しになっているのでまだご帰宅されて間もないようだ。

「それで、このノウゼンカズラのことだが」

冨岡様は疲れた素振りも見せぬまま、懐から私の文を取り出し、ノウゼンカズラと書いたところを指差した。

「どこに咲いている花のことなんだ」

少し眉を顰めたお顔に、そのような表情もなされるのだと僅かばかりに胸がさわさわと波立つような気持ちになる。

「お、お疲れでなければご案内いたします」
「頼む」
「では…」

私はとても緊張していた。胸の前で合わせる手の先が微かに震えるほどに。半歩後ろを歩く冨岡様の足音を聞きながら、いつも会うことは叶わない雲の上の人が隣にいるような不思議な感覚さえもした。

少しばかり庭を歩いて件の竹垣に到着すると、冨岡様はその花を見てなるほどと小さく呟いた。

「花が竹垣に絡まっていたのか」
「ええ…ノウゼンカズラは生命力の強い花ですから、時期にここの竹垣全体につるが這ってしまうかと」
「そうなのか」
「はい、漢字では空を凌ぐ花と書くほどですから」

遠くで蝉の鳴く声が響いていた。冨岡様は私の言葉を聞いて空を仰ぎ見た。まだ薄く始まったばかりの色をしているこの空も、すぐに濃い青へと変化していくのだろう。私は今時分のこの空の色が好きだ。流麗な水のようなこの空の色は、涼やかな冨岡様の横顔にどこか通ずるものがあるような気もする。

冨岡様は視線を落とし、しばらくの間ノウゼンカズラの花を見つめ、そして徐に口を開いた。

「このままにしておこう」

冨岡様は生い茂るノウゼンカズラのつるに長い指を絡ませる。私が良いのですかと尋ねると、冨岡様は小さく頷いた。

「この花が空を凌ぐ様を見てみたい」

その言葉に私はハッとして、冨岡様と同じようにノウゼンカズラの花を見やった。いつかこの花も上へ上へとつるを伸ばし、その朱い花びらを空いっぱいに舞い散らす日が来るのだろうか。そして冨岡様も今、心の中にそのような情景を思い浮かべているのだろうか。

「そうですね、私も見てみたくなりました」

私の返事に冨岡様はほんの少し口元を緩めた。そしてさっと踵を返し来た道を足速に戻るので、私も慌ててその後に続いた。

また来年も、同じように二人並んでノウゼンカズラの花を見られるだろうか。先を急ぐ冨岡様のその背中に、私は小さな祈りを密やかに投げかけたのだった。


(210616)