試合終了を告げるアナウンスが屋外の空気に溶けていくあいだ、ハルは月影と並んで観客席裏の通路を進み、更衣室へ戻る選手たちの流れに身を預けていた。勝敗が定まった直後の熱はまだ残っていたが、出口が近づくにつれて人の数が減り、喧騒も自然と後ろへ引いていく。重なっていたはずの足音は次第に間延びした響きに変わり、歩く速度だけが均されていった。
笹波雲明との短いやり取りで生じた違和感を、ハルは表情には出さないまま胸の内で抱え込んでいた。無意識のうちに歩幅に微かな重さが滲む。
──直後、歩いていた月影が「先に行く」と告げてハルから距離を取った。
「ハル」
呼び止められて振り返ると、数歩分の距離を挟んだまま視線が止まる。互いに歩み寄らないまま、視線だけが確かめ合う形で重なった。
「ナマエさん、南雲原にいたんですね」
「うん」
それ以上掘り下げる気配はなく、ハルは言葉をそこで切ると、会話を畳むように半歩下がった。
空気の重さをどう解けばいいのか、どの言葉から切り出せば角が立たないのか。そもそも、数ヶ月会わないだけでこれほど距離を感じるものだろうか。ナマエが違和感の正体をうまく掴めないまま判断を先送りにしているうちに、ハルは「じゃあ」と短く告げて身体の向きを変えた。
背を向けられた瞬間、考えが形になるよりも早く腕が伸びる。指先がハルの手首に触れ、逃がさないための最低限の力だけを込めた。
「後で少し話そう」
ハルは掴まれた手元と目の前の顔を交互に見比べて、戸惑ったように眉を下げたまま動かない。それでも振りほどくことはせずに、短い沈黙のあと首を縦へ動かした。
ナマエは更衣室でユニフォームを着替えながら、頭の中でこれからの流れを組み直していた。
先日、旧友と再会したときのことを思い出す。考えるより先に名前を呼び合い、駆け寄って、自然と抱き合っていた。間が空いてもそれは空白ではなく積み重ねの延長にすぎず、再会は続きから始まるものだった。親しさは言葉や仕草で確かめ合うもので、生まれた距離はその場で埋めれば良かった。しかしハルの反応は、踏み込めば同じ分だけ離れていくような感覚がある。
試合中、どこか熱の足りない表情を浮かべていたことがナマエの頭を過ぎる。踏み込み方を誤れば、触れてはいけない部分まで触れてしまうのではないかという不安がわずかに残った。
「来夏」
「んー?」
「久しぶりに会う友達になんて声かけたら良いと思う?」
手鏡を覗き込みながら前髪を整えていた来夏の指先がふと止まり、ナマエをまっすぐに見つめる。視線には軽い驚きが混じっていたが、すぐに柔らかく緩み、鏡を閉じると顎に指を当てて首を傾げた。
「まずは自分の近況報告とかが無難じゃない?」
「無難」
「いきなり核心に触れるのはやめた方がいいと思うけど」
「なるほど、ありがとう」
来夏が「今から?」と続けかけたところで、ナマエはバッグを肩に掛けた。
「そう、デート」
来夏のまばたきがひとつ分だけ遅れた。別行動になることは香澄崎先生に伝えてあることと、冗談だということを最後に告げて、更衣室を後にする。扉の向こうから何か言葉が追いかけてきた気もしたが、ナマエは振り返ることなく足早に通路を進んでいった。
「お待たせ」
ハルはスタジアム裏のベンチに座っていた。人目を避けるためかフードを被っている。立ち上がったハルを正面から見ると、以前より背丈が伸びているようだった。ついまじまじと視線を向けていると、ハルは首元のバンダナを口元まで引き上げて視線を逸らした。
ベンチに並んで座り、自販機で買ってきた缶ジュースを差し出す。
「すみません、お金」
「呼び止めたのはわたしだから気にしなくていいよ。飲める?」
「……はい、ありがとうございます」
「どういたしまして」
渋々といった様子で受け取るのを見て、ナマエはふと、先ほど見かけたチームメイトのことを尋ねた。二人は行きと同じフェリーを使って帰るらしく、蓮さん(とハルが呼んでいた)はすでに南雲原港の方へ向かったという。
そこで一度、会話が途切れた。手元の缶へ視線が落ちる。ナマエはプルタブに爪をかける指先に力を込めて、ためらいを断ち切るように缶を開けた。
「ハルは最近どうしてた?」
「最近、ですか」
「わたしは結構、慌ただしかったんだよね」
南雲原にサッカー部がなかったこと、部を作るためにいろいろと奔走する羽目になったこと、百目階段と呼ばれる場所での特訓が過酷なこと。順を追って話をしているうちに、最初は相槌を打つだけだったハルの表情が少しずつ緩み、出来事に対して短く質問を挟んでくる。
しかし、ときおりハルの視線がわずかに泳ぎ、話題の端で静かに外へ逃げていく。来夏の言葉が呼び起こされて、ナマエは無意識に言葉の速度を緩めた。
「ハル」
「はい」
「ハグしよう」
「はい、……えっ」
返事が落ちきる前にナマエは缶を脇へ置いて、距離を詰めた。肩に腕を回し、ためらいなく引き寄せる。支えを失ったハルの身体がわずかに傾き、戸惑いを含んだ息が耳元でほどける。手に残っていた缶がかすかに揺れ、こぼさないよう持ち直す気配が伝わってきた。
倒れ込ませないよう重心を受け止めながら背中へ手を添えた。強く抱きしめるわけでもなく、逃がさないほどに固めるわけでもない。触れていると分かる程度の力加減だった。
「どうしたんですか、急に」
「再会のハグ」
「いや、……はい」
「言葉より早いし、分かりやすいでしょ」
緊張で体が強張っているのが分かる。説明を足すことで余計にややこしくなるような気がして、ナマエは代わりに肩口へ額を預けた。
衣服越しの体温が思いのほか素直に伝わってくる。押し返される気配はなかった。代わりに、預けられた重みがほんの少しだけ増える。言葉は交わさないまま、体温だけが確かにそこにあった。距離を測るように、お互いの呼吸が静かに揃っていく。
暫くそうしていた後、ハルのスマートフォンが鳴った。ナマエは腕をほどき、視線で促す。ハルはパーカーのポケットからスマートフォンを取り出すと、短く応答した。内容は聞こえないが、徐々に現実へと引き戻されていくのが分かる。
「そろそろ行きます」
「引き止めてごめんね」
「いえ、話せて良かったです」
「またね、ハル」
振り返ったハルは、一拍置いて小さく頷いた。何か言いかけるように唇が動いた気がするが、結局言葉にはならないまま歩き出してしまう。
きっとすぐに何かが変わるわけではない。それでも再会した直後に比べれば、胸の奥の重さはほんの少しだけ和らいでいる。触れた温度がかろうじて糸を繋ぎ止めたのだと、ナマエは静かに息を吐いた。
そのまま視線を横へ滑らせる。
「──万部だっけ」
茂みの影へ歩み寄ると、中途半端な姿勢で身を潜めていた人物が観念したように顔を上げた。後ろめたさを隠す様子もなく、不自然に口角を吊り上げている。千乃が言っていたことを思い出しながら、ナマエは一歩分だけ距離を詰め、手のひらを上に向けて差し出した。
説明は求めない。ただ、持っているものを差し出せという無言の合図だった。