フットボールフロンティア二回戦目を制した南雲原に待ち受けていたのは、北陽学園との合併だった。実際には少子化による経営難を背景に、北陽が南雲原に経営権を譲渡する形での統合。未来志向の決断ではあるが、当事者である者たちにとっては単なる制度上の再編では済まない問題だった。
サッカー部は選手層が厚くなる一方で、公式戦のピッチに立てる人数は変わらず、むしろ競争はこれまで以上に苛烈になる。双方に積み上げてきた自負があり、北陽のメンバーも南雲原のメンバーも、自分たちこそが選ばれるべきだと疑わなかった。だからこそ練習の空気は表面上の秩序を保ちながらも、わずかな言葉や視線の交錯によって軋みを生んでいる。
皆まで言わずともわかる通り、合併後のサッカー部の雰囲気はお世辞にも良いとは言い難く、雲明にとってはその均衡をどう保つかが喫緊の課題となっていた。
──そうした状況の中で、北陽の監督である下鶴から放課後に呼び出しを受けた雲明は、学校から少し離れた場所にあるレトロな喫茶店『タンク』を訪れていた。木製の扉を押し開けた瞬間、鼻腔をくすぐる深煎りの香りとともに視界に入ったのは、向かい合う席に座る下鶴と、その隣にいる見慣れた背中だった。
「ナマエ先輩?」
思わず声に出た問いかけに、ナマエはゆるやかに振り返り、いつもと変わらぬ柔らかな笑みを雲明に向けると、まるで用件はすでに済んだと言わんばかりに椅子から立ち上がる。
「下鶴監督、ごちそうさまでした」
「ああ、引き止めて悪かった」
短いやり取りののち、ナマエは雲明の横を通り過ぎる際に軽く視線を合わせ「また明日ね」といつもの調子で声を掛けてから店を出ていった。扉が閉まると同時にベルがチリンと鳴り、その余韻が静まり返った店内に小さく溶けていく。
なぜ彼女がここにいたのか、そして下鶴とどのような話をしていたのかを測りかねたまま、雲明は一瞬だけ扉の方へ視線を残し、それから意識を切り替えるように正面の席へ向き直った。
○
「で、このタイミングで相手が中央に寄る」
「サイドラインスピアを展開?」
「正解」
南雲原と北陽の溝が僅かに埋まった日から数日後。
ホワイトボードに書き込まれていく戦術図を眺めながら説明を聞いていると、北陽のサッカーがどのように組み立てられているのか、少しずつ見えてくる。相手の特徴に応じて陣形を切り替え、空宮の判断で局面を組み替えていく構造は、感覚に任せて勢いで押し切るというよりも、状況を見極めながら積み重ねていく思考型のサッカーだった。
かつてやっていたサッカーも、それぞれの役割を噛み合わせていくやり方だった。極めて合理的で無駄がなく、個人の能力を最大限に使うには理にかなっていたと思う。南雲原や北陽のサッカーとの違いがあるとすれば、考えの方向性だろう。
誰もが自分の力で試合を動かせることを知っていたし、サッカーに対してそれぞれ思うところもあった。ただ、気持ちよりも先に置かれていたものがあった。自分たちが背負っている事情を思えば、勝つための方法を選んでいる余裕はなく、どんな手段を使ってでも結果を出すことが求められていた。
「空宮は笹波と昔からの知り合いなんだよね」
「そうだけど」
「笹波がサッカーから離れたとき、なんて声掛けたの」
線を引いていた空宮の手が止まる。書きかけの軌道が途切れ、振り返った視線がナマエを確かめるように細められた。
「べつに、普通だよ」空宮は短く息を吐くと、止めていたペンを再び動かしながらホワイトボードへ線を書き足していく。矢印をいくつか重ね、中央に寄ったラインを外へ逃がすような軌道を描いたあと、軽い調子で口を開いた。
「なんでそんなこと聞きたいわけ?」
問い返され、ナマエはすぐに言葉が出てこなかった。ただ、考えているうちに笹波と空宮の関係が頭に浮かんだだけだったからだ。
「質問を変える。サッカー辞めそうな奴がいるの?」
空宮はペン先を軽くボードに当てたまま、振り返らずにそう言った。
「辞めるかどうかは分からないけど、楽しめてないみたいなんだよね」
ナマエはホワイトボードに残った図をぼんやりと眺める。空宮はふぅんと相槌を打ったきり何も言わなかった。描いた線を見直すように視線を動かしてからペンを置き、ようやく口を開く。
サッカーが続けられなくなったことを知ったあと、何度か声を掛けに行ったこと。練習のあとで会いに行ったこともあれば、手紙を書いたこともあったらしい。だが、返事が返ってくることは無かったという。それでもしばらくは続けていたが、やがて区切りをつけるようにやめたのだと。
言葉に強い感情は乗っていないが、当時の出来事をすでに整理している様子だけは伝わってくる。ナマエは何も言わずに視線を落とし、そして、何かを言いかけて言葉にしないまま歩き出したハルの姿を思い浮かべた。
「そもそも、楽しめないっていうのは本人の気持ち次第だろ」
「でも、気付くにはきっかけがいると思う」
「お節介だって言われても?」
「うん」
ナマエは木曽路のように他人の気持ちを上手く汲み取れる人間ではないし、実際のところ、相手の感情に合わせて言葉を選ぶことも得意ではない。どう返事をすれば相手が喜ぶのか、どこまで踏み込んで良いのかを考えていると、会話の流れそのものを見失ってしまうことも多い。善人ぶって良い人間になりきろうとしても、根本はあの頃から変わっていない。
だけどこれだけは、迷わずに答えることができた。
「サッカーってさ、上手いやつとか楽しそうにやってるやつ見ると、ちょっと気になるだろ」
「うん」
「サッカーは楽しいんだって、ナマエがそいつに証明してやれば?」
振り返った空宮が口元を緩めた。どこか面白がっているようにも聞こえる。予想していなかった返答にナマエは一瞬呆気にとられ、頬杖をやめて困ったように笑った。
「じゃあ、ナマエフォーム考えよう」
「それだけは絶対にない」
窓の隙間から入り込んだ風が部室の空気を揺らし、ホワイトボードに貼られていた紙の端を小さく持ち上げる。次にグラウンドへ出たときに何をすればいいのかはもう、はっきりとしていた。