「笹波雲明」
声は、教室の後方から一直線に飛んできた。朝のホームルーム前、机を引く音や鞄を置く音が混ざり合う中で、その人の輪郭だけがはっきりとしている。
名前を知っている人間は増えた。先日の一件以来、廊下ですれ違えば視線を向けられることが増えたし、ひそひそと話す声もよく聞こえた。桜咲先輩が一緒にいたこともあって、話は尾ひれをつけて広がったらしい。中には勝ち目がないだの、どうせ冗談だの、そもそも人数が足りないだろうという現実的な指摘も混ざっている。
正直なところ、どれも否定できなかった。
人数は足りない。協力者もいない。校内でもっとも力のある野球部に喧嘩を売った以上、静観を決め込む人間が多いのも当然だ。だから今日はどうやって部員を集めるか、そのことだけを考えようと思っていた。まさか、この状況で勢いよく距離を詰めてくる人間──木曽路は例外──がいるとは思ってもいなかったからだ。
「何か用でしょうか」
先輩は僕の前に予兆もなく降ってきた。落ちてきた理由も、軌道も分からない。ただ、静かな日常の表面に波紋を残していったのは確かだ。
○
ロープウェイは一定の速度を保ったまま、軋みもなく下降を続けていた。車内に満ちる空気はどことなく張りつめていて、夕陽に染まる長崎の街並みが、沈黙をやわらかく受け止める緩衝材のように広がっていた。
窓越しに見える屋根の連なりや、遠くへ伸びる海岸線は、本来なら観光案内に載る類の景色だろう。しかし、ハルの視線はほとんどそこに留まらず、足元か、あるいはガラスに薄く映る自分自身へと向けられている。ロープウェイのわずかな揺れが足裏から遅れて伝わってきた。その間を測るようにして、雲明は口をひらく。
「ナマエ先輩には会わなくて良かったの?」
問いを投げたのは沈黙が長くなりすぎる前にという配慮もあったし、ずっと胸の奥で引っかかっていた疑問をこれ以上寝かせておけなかったからでもあった。
ハルはすぐには答えず、わずかに息を整えてから首元へと手を伸ばす。
「今は会うつもりないよ。……かっこ悪いところ見せたくないし」
「ハルは、先輩にかっこいいと思われたいの?」
「え? うーん、どうだろう」
言い終えたあと、指先でマフラーの端をいじる。自分でも整理がついていないのか、ハルは苦笑とも困惑とも取れる表情を浮かべて視線を窓の外へ逃がした。まだ言葉として、外に出せる形になっていないらしい。
雲明はその逡巡を責めるでも、促すでもなく「そっか」と頷く。
「この前、ナマエ先輩告白されてたよ」
「へえ、それってどんなやつ?」
ハルは口元だけを緩めた。調子は変わっていないが、笑っているようで笑っていない。答えが出るまでの間を許さない視線に、理由のわからない圧のようなものを感じさせる。逸らせばそのまま何かを取り落とす気がして、雲明は言葉を選ぶことなく聞いたことをそのまま伝えた。
ゴッドツリーの前に立つナマエの姿と、興奮した様子で物陰から覗き込んでいる忍原来夏の姿が脳裏に浮かぶ。──もっとも、ナマエが「うん、いいよ。どこに付き合えば良いの?」と今どき信じられないような返事をして、相手と来夏を同時に落胆させていたことまでは、あえて口にしなかったが。
「その人、俺よりサッカー上手いのかな」
「それはない」
「でもナマエさん、サッカー好きなひとが好きだから」
言い切ったあと、ハルは一瞬だけ目を伏せる。肩の力を抜くようなその仕草は、自嘲と安堵が入り混じった感情を、ひとまず胸の奥へ押し戻すためのもののように見えた。
できて当たり前だったサッカーが、今は手の届かない場所にある。その事実が、ハルの中に静かに残っているのだろう。
「ハル、提案があるんだけど」
「?」
雲明はポケットから端末を取り出すと、ハルから視線を逸らすことなく言葉を紡ぐ。
「先輩のイナコードのIDを教える代わりに、ナマエ先輩について教えてほしいんだ」
「……勝手にいいの?」
「IDのこと? 問題ないよ」
以前、ナマエからハルとは連絡を取り合っていないと聞いていた。そもそも、連絡先を知らないのだと。ならばこれはナマエのためでもあり、ハル自身が抱えている感情を輪郭づけるためでもある。
加えて、これまでに積み重なってきた彼女への違和感≠一度明確にしておきたい、という雲明自身の個人的な欲求もそこには含まれていた。
「知ってる範囲で良いなら答えるけど」
「交渉成立だね」
「その代わり、南雲原のナマエさんを教えてよ」
ロープウェイが終点に近づき、わずかな揺れとともに速度を落とす。雲明は扉の向こうに広がる南雲原の町を見据えながら、サッカーを失ってしまったハルと、サッカーを手放せなかったと言った彼女の輪郭が、ようやく同じ高さで重なり始めたような気がしていた。
その重なりが、今後どのような変化をもたらすかまでは、雲明にも分からなかったが。