円堂

 甲板に出ると朝のひかりが海面に反射し、船の進行に合わせて細かな波が崩れていく様子が、視界の端から端まで続いていた。手すりに軽く体重を預けながら、その揺れをぼんやりと目で追う。潮の香りは強すぎず、風に混じって流れていくたびに、遠くまで来たという実感が遅れてついてくる。
 柄にもなく浮き足立っているし、胸が弾んでいる。部活を休むにあたって積み上げられたメニューが脳裏を掠めつつも、今はまだ考えないよう隅に押しやった。
 船はゆっくりと速度を落とし、港の輪郭がはっきりと形を持ち始めると、建物の密度と人の流れが視界に入り込む。下船して待ち合わせ場所に歩を進めると、そこには淡い色合いのワンピースに軽いジャケットを合わせた夏未が立っていた。

「久しぶりね」

 短く言葉を交わしたあと、朝食をどうするかという話になり、ナマエは一瞬だけ考えてから、さりげなく外で食べる流れへと話を寄せた。夏未は特に疑問を持つ様子もなく、行きつけの店があると告げて歩き出す。
 案内された店は扉を開けた瞬間に空気が一段落ち着くような感覚があり、周囲の会話も抑えられていた。席に着くと視界が自然に区切られ、隣の気配は感じられても干渉しない距離が保たれている。
 運ばれてきたプレートは配置や色合いが整えられていて、匂いもしっかりと食欲を引き出すものだった。薄く焼かれたオムレツは表面がなめらかに整えられ、ナイフを入れると内側にとろみが残っている。刻んだハーブの香りが遅れて立ち上がり、横にはバターを含んだクロワッサンと軽く火を通したアスパラガス、それからトマトのソテーが添えられていた。

「綱海とはこの前話したよ」
「南雲原の対戦校だったわね」
「無くなったけどね」
「海祭りだったかしら?」
「そうそう」

 言いながら、連絡を取った後の綱海の反応を思い出す。深く考えるでもなく、拒むでもなく「よく分かんねーけど、そういうこともあるよな」とカラリと笑っていた光景がよみがえり、小さく笑みがこぼれた。
 夏未は手を止めないまま、視線だけを上げる。

「元気そうで安心したわ」

 言葉は穏やかだったが、そこに含まれているものを測ろうとすると少しだけ間が空く。
 「これ、美味しいね」わたしの言葉に夏未は仕方がなさそうに眉を下げて笑った。その表情は覚えのある輪郭を残しながらも以前よりずっと穏やかで、相手を測るより先に受け止める余裕があるように見えた。



「──え、ナマエさん来てたの?」
「ああ、こっちに用があったらしくてな」
「……聞いてない」

 呟きながら、ハルはバンダナに鼻先を埋めた。「ん?」と首を傾げる守に、なんでもないと短く返し、視線を逸らす。

「あっ!」
「わっ、なに」
「ハルに渡してくれってナマエに頼まれたものがあったんだ、忘れないうちに渡しておかないとな」
「俺に?」

 守が奥から持ってきた包みを受け取り、ハルはそれを静かに見つめる。簡素な包装の端には小さなカードが添えられていて、視線を落とすと『ハッピーバースデー』と書かれた英字が目に入った。
 胸の奥がわずかに浮き上がる。そのまま包みを開けようとして、視界の端に守の姿があることに気づき、ハルは動きを止めた。目が合った守が「開けないのか?」と軽く促すと、視線から逃れるようにそれを後ろへ隠す。

「部屋で開けるから、いい」

 リビングを出て、足早に階段を上っていく。残された守はその様子を見送りながら小さく笑みをこぼし、手元のマグカップに口をつけた。

 部屋に入ると、扉を閉める音がやけに大きく感じられた。ハルは息を整えてベッドに腰を下ろし、手元に引き寄せた包みを改めてひらく。中には雷門のユニフォームを彷彿とさせる色合いのミサンガが入っていて、指先でなぞると糸の重なりが整って並び、結び目の一つひとつに手間がかかっていることが伝わってきた。
 手首に付けるには長く、足首に宛てがいながら長さを確かめる。わずかに余る感覚がくすぐったい。誰かから形に残るものを受け取って、それを自分のものとして持ち続ける感覚はあまり覚えがなかった。祝われることはあっても、渡される頃にはすでに数がまとまっていて、一つひとつに向き合う余裕はなかったからだ。

 それでも、手の中に収まっているこれだけは、どう扱えばいいのか迷いながらも、簡単にしまっておく気にはなれなかった。
 ミサンガをそっと脇に置き、ハルは枕元に置いていたスマートフォンへ手を伸ばす。先日、雲明から教えてもらったイナコードの画面は、開いたままほとんど触れられていなかった。表示されたIDを何度か確かめただけで、その先には進めずに閉じている。

『こんにちは』
『お久しぶりです』

 入力欄に並ぶ文字はどれも決定打に欠けていて、送信するには落ち着きが悪い。スタンプでは軽すぎるし、かといって挨拶だけでは距離が遠いように感じて、指先は何度も同じ動作を繰り返す。
 書いては消し、また書いては消す。その間に時間だけが過ぎていき、気が付けば三十分ほど経過していた。ハルは小さく息を吐くと、ベッドへ身を倒した。サッカーであれば、次に何をするべきか迷わない。相手の動きも、味方の位置も、自然と頭の中に描ける。それなのに、誰かとの距離をどう詰めるかとなると、判断の拠り所が見当たらなかった。

 昔はもう少し簡単だったような気もするが、思い出そうとすると輪郭が曖昧にぼやけてしまう。
 しばらく天井を見つめたあと、ハルはゆっくりと上体を起こした。指先がスマートフォンの画面をなぞり、開いたままの入力欄を一度だけ見下ろす。このまま言葉を整えても、きっとまた同じところで止まってしまう気がする。
 ハルは短く息を吸い込むと、通話画面をひらく。指が止まったのは一瞬で、次の瞬間には発信ボタンに触れていた。規則的な音が繰り返し続いたあと、ぷつりと止む。

「ハルです、いま大丈夫ですか?」