2.「あなたはぼくの『お客さま』ですので」
「いや、まさか。」
朝。コーヒーチェーン店をあとにして、頭を抱えながらぼくは今日も出勤した。そうか、そうか、あの人が。大手外資系のベンチャー企業社長となればこのビルにオフィスがあった。どこかで見覚えがあったのはきっと彼が目立つからだろう。目立つと言っても、立場だけではなくその容姿もあるが。
真相が判明してすっきりした反面、なんだかすごい人を相手にしてしまったという事実が、なんだかぼんやりした疲れとして襲いかかる。今日は夜の勤務ではないので、会うことはきっとないだろう────
そう思ってタイムカードを切り、制服に着替えて店に出て、いつものようにアシスタントの品出しをしていた。いつも通り、だったのに。
「昨日ぶりだな。」
「はい?」
話しかけられてふり返ると、ぼくが今みょうな疲れに襲われている原因その人が自ら、ぼくに近づいてきたのだ。
昨日ぶり。たしかにそうだが、この人あのあとちゃんと家に帰ることができたのだろうか。疲れ具合からして結構なものだったが。
「案ずるな、我に終わらせられぬ職務はない。」
顔に出ていたのか、彼は平然としてそんなことを言う。社長ともなると仕事量が違うだろうなあとか、あの写真集たちはどれくらいまで読んだのかなとか考えながら、「本日はどのような本をお探しですか?」と問いかける。「ふむ、そうさな」と顎に手を当てて考える彼は容姿がやはり整っているので相当映える。
しばらくして、彼は自分の腕時計を見てからおっと、と深紅の瞳を丸くして思いついたように言い放った。
「休憩でな。ゆるりとできるものが良い。あるか。」
「ゆるりとしたもの。」
ぼくは彼の言葉を繰り返す。
彼が読書家で、小説を読む時間のあるような人物であるなら小説を勧めただろうが、あいにくと彼は大手の外資系ベンチャー企業の社長。まとまった休みなどおそらく無いに等しいだろう。長編の小説は除外。
そうなると、短編集か、或いは─────
「お客さまは普段小説はお読みになられますか?」
「読まぬことはないが、今はこれと言って好む作家もない。」
そうなると、小説全般は今の彼にとって必要な要素を満たさない。短編小説ならばちょっとした時間に読めるので休憩時間に適しているが、それは好みの作家か、もしくは話題性のある作家だったりする条件のもと「読もう」と思うものであって、それらがないならばただ空虚な時間を過ごすことになる。
一応、話題性のある作家はいないことはない、というか、書店では話題性のあるものを積極的に売り出しているので、そこに見向きせずわざわざぼくの元へきたということは、「話題性に対して興味が薄い」ということだ。
純文学は文体に好き嫌いや読みやすさの差異が出てくる。今回の場合小説は不適切かもしれない。
「なるほど…お客さまがお嫌いでなければ、おすすめしたいジャンルがあります。」
「良い。申してみよ。」
「『コミック』…まあ有り体に言えば漫画ですね。お嫌いですか?」
「いや?我を愉しませるものであれば、なんであれそれは評価に値するものだろう。」
あまり普段読んだことはないが。彼はそう付け足してぼんやり虚空を見た。あまり時間を取らせるのも良くないので、ぼくは速やかにコミックのコーナーに彼を案内した。
話題性に引っ張られることがない、つまり変動しない評価のコミックが、おそらく今の彼には必要だ。
「こちら、いかがでしょうか。」
「これは────」
「ありふれた女子高生たちがまったりした空気感でキャンプを楽しむ漫画です。ええと、その。お仕事が忙しくあまり旅行などに行かれないようでしたら、この漫画だと色々な場所に行くのでちょっとした旅行気分が味わえるかと。連載もしていますが基本的に一話完結のお話がほとんどなので、続きは気が向いた時に買われてもきっと大丈夫です。」
「キャンプなら経験がある。」
「あ、お嫌でしたか?」
「いいや、いいや。つい懐かしさに耽ってしまっただけのこと。」
「そうなんですね。こちら、実は深夜帯でアニメ化もしていたんです。ぼくも疲れて帰ったときは観て一息ついてから寝ました。」
ついつい話が弾んでしまう。いけない。
こちら、おすすめですがいかがなさいますか。彼にそう問うたら、店頭の試し読みをパラパラと数ページ流し読みしたあとに、「一巻を寄越せ」と、これまた偉そうに笑いながらぼくに言うのだ。
「失礼ですが、お客さま」
「む?」
「レジはあちらになります。他にお客さまが何人かいらっしゃいますので、レジ入り口にお並びいただけますでしょうか。」
「────盛況か」
「はい。喜ばしい限りです。」
話しているうちにレジの列が進む。あともう一台空けた方がいいかもしれない。ぼくは「失礼致します」と彼に告げてレジに入る。偶然にもぼくがお会計を担当するのは彼だった。彼はなんとなくニヤニヤと笑っていて、勝手にこちらがやらかしたような気分になった。癖のある人物だが、無駄に声を荒げたりはしないので不思議な居心地の良さと話しやすさがあった。いや、決して親しみやすい、ということではないが。
会計が終わるころ、彼はクレジットの控えレシートをトレイに忘れそうになった。
「お客さま」
慌てて引き留める。すると彼はこう言った。
「ギルガメッシュだ」
「はい?」
「そう呼ぶが良い」
これは試されている。なんとなくそう感じた。まだ昨日と今日しか彼とは話したことがないが、彼自身がそんな気安い性格ではないことは彼の言葉の端々から感じる。それこそ、「王様」のような、その心の読めなさだ。そして、こちらとしてはスタッフとしてのマナーがある。
「失礼ですが、ここにあなたがいる以上は、あなたはぼくの『お客さま』ですので。」
今はお気持ちだけ受け取らせていただきます。
そう返すと、彼はつまらなさそうにため息をついた。機嫌を損ねたかもしれないが、これはスタッフとしてのマナーであり、マナーを守ることはスタッフのプライドだ。引き下がるわけにはいかないのだ。
しかし、彼から帰ってきた答えは意外なものだった。
「また来てやる。」
***
「っていうことがね、あったんですよ。」
「はあ……大変っすね。」
退勤後、ぼくはまたコーヒーチェーン店に立ち寄った。労働で疲れた身体に一杯だ。ぶっちゃけ最高である。話しかけた相手はまだ高校生のバイトの子である。ええっと、名前はなんだっけ。結構覚えにくい名前だった気がする。
右サイドに前髪が垂れていて、左サイドには白いメッシュが入っている。最初はヤンキーかと思ったら特にそんなことはなく、むしろ真面目な方の性格だった。少し謙虚すぎるというか、卑屈すぎるきらいがあるが、その辺に関してはぼくも人のことを言えないのでスルーしている。
「ミルクティー、ミルク多め。どうぞ」
「おお、ありがとうございます」
「今日はコーヒーとか、甘いやつじゃないんすね。」
「この後夕飯ですしね。少しお腹開けときたいじゃないですか。」
レシートを出しながら、「確かに」とバイトくんは呟いた。
名前なんだっけ、なんて言えないから名札を見れば、英語で書かれていてどう発音するべきかわからなかった。
「日本人じゃなかったんですか?流暢な日本語話しますけど…」
「あー、出身が外国で。籍もそこだけど今はまあ留学中なんで。」
その話を聞いて、「王様」はどこに籍を置いているのか、名前は外国のものだったが、どこの出身かは結局わからない。
彼────「王様」に関しては、まだまだ知らないことが多すぎる。こんなに大きな会社の社長なのに。どれだけ本を紹介しても、どれだけの数の本を売っても、結局他人のことはわからないものなのだ。手に取る本の厚みは紛れもなく他人が書いたものなのに、それをおもしろく読んでいるのに、ぼくらは結局、何も知らないままでいるのだ。