002


「さてお嬢さん、夜道は大変危険だと思いませんか?」

街灯の下。ひっそりと、まるで自身の宝物を見せる子供のように、烙は楽しそうに笑う。一瞬、意図が分からず立ち止まってしまった。そして、「えぇ、そうね」とシャルはやっと返事を返す。
完全に止まってしまった二人の足音。真っ黒な手袋がはめられた長い指が、薄い唇の前で静かにと合図する。静寂に包まれた住宅街で、コツンと小さな足音が響いた。

「だけなら良かったんですがねぇ、ぐっ!」
「アァァアァッァァアアブオグッ!!!!」
「─、!?」

視界が白に覆われる。シャルが何と言葉を発する前に、バチッンッ!!と何かが弾ける音と誰かの奇声。
目の前が真っ暗になり、後頭部に暖かい感覚が当たる。それが撫でるように離れると、しっとりとした落ち着いた声が鼓膜をゆする。

「私の大事な商売道具、任せましたよ。それと、自分のものはしっかり握っておきなさい」
「お、医者様?」
「どけぇえああ!!」
「チッ、」

視界に光が戻る。また何かが弾けるような音がして、荒い息遣いだけが聞こえる。
頭から被された真っ白な白衣に、ずしりと重いアタッシュケース。右手に握らされたのは、ポケットに入れていたはずの防犯ブザー。
そして目の前には、

「やあこんばんは、かわいいお嬢さん」
「ヒッ、!」

知らない男。
ニタリといやらしく笑った男にシャルの脳は警報を鳴らす。しかし、恐怖に染まった足は思い通りに動かず縺れてしまう。ずるりと滑るように地面に尻餅をつき、盾のように持っていたアタッシュケースも手から離れ暗い地面に転がった。震えた手で白衣を握るが、そのまま男に手を取られ地面に押し倒される。男はニコニコと気味の悪い笑顔を浮かべたまま、荒い息を繰り返す。

「ああ、かわいいなぁ、かわいいなあ、まるでお人形さんみたいだ」
「は、なして!」

必死に抵抗するシャルを見て、男は笑みをさらに深くする。
影になった男の顔、光の入っていない目がシャルの中の恐怖を駆り立てる。

「フフッ声もとってもかわいいね。髪もサラサラで、肌も綺麗だなぁ」
「っ、いや!」

頬に生ぬるい何かが触れる。男の鼻が瞼に当たる。全身を走る嫌悪感に、思わず男の顔を右手で払うように叩く。

「った。あぁぁ、怖いね、怖いよね。大丈夫だよ。最初は痛いだろうけど、すぐに気持ちよくしてあげる!それに、その綺麗な目から流れる涙もきっと素敵だよ!!」

少女の力では大したダメージもなく、男は変わらず笑みを浮かべたまま興奮したように何かを取り出した。赤い文字が並んでいる白いボトル。《塩酸》と書かれた文字は、不幸にもシャルにはまだ読めなかった。

「順番がいつもと逆になっちゃった!ああ、でもかわいい顔がたくさん見られたから、僕大満足っ!はははっ、もっと、可愛くしてあげる。そしてもっとかわいい声を僕に聞かせて、?」
「──っ!!」


────────!!!!!!!


突如鳴り響くサイレンのような音。キンと鼓膜を揺さぶる激しい音が住宅街に響き渡る。

「アガぁっ!」

圧迫感がシャルの上から消え、男が地面に転がる。
視界の端に何かが光り、シャルは頭上を見上げた。

「ぁ、」
「お嬢さん、撤回しましょう。貴女はただの迷子だったようですねぇ。握っておけとは言いましたが、馬鹿正直に握っているだけでは防犯などできませんよ」

包帯が巻かれた顔に、影が差す。灰色の目が馬鹿にしたように弧を描き、シャルを見下ろしている。
シャルは烙に声をかけようと口を開くが、目から流れる涙と嗚咽が邪魔をする。
烙はシャルの下敷きになっている白衣を掴み、涙で濡れた顔に押し付けると、鳴り続けている防犯ブザーを止め、アタッシュケースを再びシャルに抱えさせた。シャルは涙が染み込み灰色のまだら模様を作っていく白衣をしっかりと握りしめ、烙を不安げに見上げる。

「それに、言われたこともできないとは、お馬鹿さんでもあったようです」
「…っ、」
「次はきちんと抱えておくように」

大きな掌がシャルのおでこを押すように叩く。そして烙はシャツについた埃を払い、手袋をはめ直す。
カツンと足音を一つ鳴らしたところで、烙は何かを思い出したように声を漏らした。

「忘れるところでした。お馬鹿なお嬢さんに一つ教えてあげましょう。私は腕のいい医者ではありますが、良いお医者様ではありませんよ」
「…え?」

それは、一体どういう意味なのか。そう問う前に、烙は地面に転がったままの男を蹴り飛ばした。呻き声を上げながら更に転がる男に、烙は笑いながら言葉をかける。

「さて、今どんな気分です?吐き気、頭痛、指先の痺れなども感じているとありがたいのですが。あぁ、辛そうですねぇ。良い反応で助かります」
「グソッ!な゛んっなんだよお前ぇえ!!」

今日一番の爽やかな笑顔で烙は言葉を続ける。

「まだまだ元気そうですねぇ。フフッ元気なモルモットは弄り甲斐があってとても楽しいですよ」
「あぐっ!」
「話の通じない外国人に、馬鹿な餓鬼の子守に、傍迷惑な変態の相手。今日は厄日かと思いましたがいいサンプルが取れそうで私も、大満足です」

男の目に左目が笑っているのが映り、こもった叫び声が静かに消えていく。
生肉を床に落としてしまったような水の音が何度も耳に届き、耳を塞ぎたくなるが、シャルの腕は白衣を握りしめることしかできなかった。

やがて、満足したようで、烙は倒れた男の一部を持ち、出会った時と同じように怪しく笑みを浮かべてシャルの前に立つ。

「私の最近の趣味は目玉を集めることでしてねぇ。お嬢さんの綺麗な目玉にも興味がある」
「…!、でしたら、わたしの目も、そこの方のように取ってしまうのですか?」
「こんなに震えて可哀想に。…怖いですか、私が」

唇が弧を描く。

「いいえ」
「………ほう?言い切りますね」

烙の目が丸くなる。
シャルは灰色の目をしっかりと見据え、白衣を握りしめた。

「だって、貴方は私を助けてくれたんですもの。それが、どんな理由でも、私は貴方に助けられた。貴方がどんなに悪い方でも、それは変わりませんわ」

まっすぐな目に一瞬言葉が詰まる。
キラキラと眩しく光りを失わないまっすぐな瞳。その眩しさに、一度目を閉じ息を吐き出す。

「…はッ、餓鬼がよく言う。…お嬢さんはパッパラパーのトンチンカンなお子ちゃまだったようですねぇ」
「なっ!ぱっぱ?何なんですの!?そのふざけた言いようは!あ、貴方なんてお医者様じゃなくて、〜〜!た…ただの包帯男!」
「は、?…なん、ですか。ククッ、そのまんまですねぇ…ああいえ、フフッ純真無垢なお嬢さんの精一杯の悪口、受け取っておきましょうかねぇ」
「もうっ!馬鹿にしてますでしょう!」
「よくわかりましたねぇ、はなまるでも上げましょうか」
「いりません!!」

そう言いながら、差し出された手を取り立ち上がる。
赤い液体の広がった地面から目を逸らして、烙の手を握ったまま、シャルは足を踏み出した。

「色んなものを見たお嬢さんの瞳は、今よりきっと美しいんでしょうねぇ」

「?何か言いましたか?」
「いいえ、なにも」

いつもと同じように、烙は怪しく笑って歩を進める。小さな歩幅に合わせて少しずつ、確実に。

「もしその時が来たら、遠慮なく奪い取ってしまいましょうか」








『──市にて、発見された男性の遺体の身元が──』
『──、女児強姦事件の犯人と───警察は───』


─ブツンッ─


「あぁ、お名前を伺うのを忘れてしまったわ」

「いえ、知らなくてもいいでしょう。きっと、また──」


-2-

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