高嶺の花_5
最近、夜更かしが板に付いてきた。荒船くんが貸してくれるもの以外も映画を見ているせいだろう。
眠い目を擦りながら一瞥した窓の外では、ざあざあ雨が降っている。昨日から続く雨が上がれば例年より一足早い梅雨明けとなるらしいが、それを疑いたくなるほどの雨脚だった。小降りになるまで待とうと教室に残って約1時間は以上経っている。課題は捌けたけど、残った意味はあんまりなかったなあ。大人しく帰宅することを決めて教材を鞄に詰めていると、机の中から友人にもらった夏期講習のチラシが顔を覗かせた。夏休みはもう少し先だが申し込みは始まっているらしい。
「ミョウジもすぐこっち側にしてやるぜ」という不穏な宣言通り、現状私はすっかり映画鑑賞にハマりつつある。いまのところ成績は特に落ちていないし、苦手なリスニングに至っては洋画を字幕で見ているおかげで多少英語が耳に馴染んだらしく、じりじりと点数が上がり始めていた。とは言え日中の授業は眠いし、このままの時間の使い方を繰り返せば生活が崩壊しかねないだろう。
現実から目を背けて映画の世界へ飛び込んでみても現実の私が受験生であることに何ら変わりはない。私は、ボーダー隊員とは別口で用意されている三門市立大学への推薦枠を貰える予定だが、現役生の多くは夏に成績が伸びるというし推薦に胡坐をかいていると痛い目を見る可能性も十分ある。だから、他県の大学への進学を目指し塾通いしている友人から夏期講習の情報をいくらか仕入れたのだったがどれもこれもそれなりのお値段だ。毎晩のように映画を見ている分際でこれを親に頼むは忍びない。
映画はセーブして自力できっちり勉強しなきゃなあ。でもひとまず、今夜早く寝るところから始めよう。そう思いながらあくびをひとつ。すると、背後から笑い交じりのからかい声。
「でけえあくび」
「あ、荒船くん……。あはは、また恥ずかしいとこ見られちゃったな」
「気にすんな。この前の電話の方が酷かったぜ」
「忘れて欲しいんですけど!」
「あいにく記憶力には自信がある」
「最悪じゃん」
笑って大袈裟に肩をすくめる。しつこい人はモテないよ、と脅そうとして、やめた。荒船くんは普通にモテるし、そもそも本人がそういう評価を気にしていない様子だし。どうせ効果はない。忘れてくれるのを気長に待つことにしよう。
「荒船くんは今帰るところ? 学校に居残ってるの珍しいね」
「さっきまで補習受けてたんだよ」
「補習」
「ボーダー任務で出られなかった授業を補うためのコマだ。お前の思ってるような補習じゃねえ」
「まだ何も言ってないのに」
「顔に書いてある。お前は何してたんだ?」
リュックを隣の席におろして、荒船くんは私の手元を覗き込んだ。不意に近づいた距離に少し動揺。この間の吊り橋効果の影響が未だ尾を引いているようでちょっと困っている。
変な態度を取らないよう奥歯を噛みしめる私をよそに、似通ったレイアウトの青いチラシは揃いも揃ってデカデカと同じ主張をしている。深爪気味の指がその一枚をさらっていった。
「ああ、夏の予定は夏期講習か」
「いや、今値段見てびっくりしてたところ。これはナシかな。夏は図書館にでも通って自習で頑張りますよ」
「ふぅん。そう言えば受験生だもんな。となるとさっきのは勉強による寝不足ってところか。大変だな」
隣の空席に腰掛けた荒船くんが感心した様子で頷くので非常にばつが悪い。からかって悪かったなと返されるチラシを受け取りながら、頬をかいた。
「いやあ、さっきのは勉強ではなく映画鑑賞による寝不足でして……」
「まだ何か貸してたか? ミョウジ、昨日俺にDVD返したよな?」
「バッチリ全部返したよ。でも実は最近、自分で面白そうなの探してちょこちょこ見ててね」
形の良い片眉が吊り上がり口角が緩んだ。映画の話をしているときによく見せてくれるこの嬉しそうな表情が私は結構好きだったりする。こうして話す機会がなければ、荒船くんがこんな笑顔をするなんて知らなかっただろう。たぶん、友達の特権ってやつ。
「へえ……。そいつは良い傾向じゃねえか。ちなみに昨日は何を?」
「ええと、ゲームの中に閉じ込められた高校生のお話。テレビゲームに吸い込まれてジャングルに行くんだけどそれぞれの登場人物のアバターが本人と違いすぎて……ふふふ、思い出したら笑っちゃう」
「ああ、なるほど」
思い出し笑いを堪えられず声を洩らす私ははたから見れば不審に違いないが、荒船くんは大真面目に相槌を打った。主演がアクション映画でよく名の挙がる俳優だったし、映画好きな彼のことだから知っている作品かとは思っていたが、一緒になって笑うでもなくリアクションは淡白だ。
「なんの“なるほど”?」
「好きそうだなと思ってな。ちなみに同じタイトルの、ジャングルが来る方は見たか?」
「見てない。えっ、ジャングルが来る……? 何それ、そんなのがあるの?」
明らかに噛み合わない主語と動詞が組み合わせだ。ジャングルが来る? それはもう結局、ジャングルの中に行くことと同じなのでは? 不可思議な響きに思わずおうむ返しをしてしまう。私が食いついたからか、餌を垂らした彼はやや前のめりで言葉を続ける。
「ある。タイトルに副題が付いてない、一番昔に作られたやつがジャングルが来る方だな。俺としてはミョウジにはそっちの方がよりオススメだ」
「どうして?」
「夜の博物館が舞台のシリーズが好きって言ってただろう? ジャングルが来る方はアレに近い雰囲気があると思うぜ」
「え!」
「今度は何だ」
「前に一度話したきりなのによく覚えてたね」
その話は、荒船くんと仲良くなるきっかけとなった日にちょっとだけ言ったきりだったはずだ。大したことない会話に脳みそのリソースを割いてもらっていたとは恐れ入る。驚く私に、荒船くんは視線を逸らし苦笑いをこぼした。
「だから記憶力には自信があんだよ。それに、布教には好みの把握は必須だしな」
「その割に最初におすすめしてくれたのはスパイものアクションだったじゃん」
「あれは同じものを好きになってくれねえかなって願望込みのオススメだ。文句言うなよ、面白かっただろ?」
そう言われて、最初に借りた王道スパイ映画シリーズを思い出す。5作目なんかは初っ端から主役が飛行機にしがみついていて壮絶だった。とても信じ難いが、荒船くんによればあれはスタントマンではなく本人らしい。
この作品はアクションだけでも十分すごいが、私はストーリーにもハマったので本当に的確な布教だったなと改めて思う。
「文句なしに面白かったよ。私はまんまと術中にハマっちゃったわけだ」
「チョロくて助かる。……お、ちょうどいいな」
そう言って荒船くんは立ち上がった。つられて見た視線の先で、雨は小降りになっていた。中途半端になっていた帰り支度を済ませると、彼は「じゃあ行くか」と背伸びをした。
自然な流れで隣を歩きながら、私も何か荒船くんに布教できるものはないかなと思いを巡らす。自分の好きなものに対し彼があの嬉しそうな表情を見せてくれたら、かなり嬉しいかもしれない。
……でもなんかこういう考えって、私が荒船くんのことを好きみたいだな。
なんてあり得ない物思いにふけっていた私だったが、靴を履き替えてすぐ、傘立てから自分の傘がなくなっていることに気付きそれどころではなくなってしまった。
「クソ、やられた!」
隣を見ると、空っぽの傘立ての前で荒船くんが立ち尽くしている。こんな不運な奇跡ってあるんだ……。傘泥棒への恨みを抱えながらも、顔を見合わせた私たちは思わず同時に噴き出したのだった。