裸足で深海を行け_5
ナマエは待ちぼうけを食らっていた。
かれこれ2時間になる。いつも時計のように定刻通りきびきび動く彼の遅刻は初めてのことだった。連絡も取れないことから恐らく急な仕事なのだろう。それでも、ひょっとして少しくらい会えないだろうかと淡い期待を抱きながら待ち合わせのカフェでしぶとく七海を待っていた。
七海が基本的に何でも答えてくれるため、好奇心旺盛なナマエは彼の生きる世界に関してよく質問をする。話ぶりは淡々としているものの内容は分かりやすく纏められており、理解が及ばなかった部分を再度尋ねると易しくかみ砕いてくれる。そのおかげで、最近はだいぶ知識が増えてきた。
時に人の命を奪ったりする呪いは人間の負の感情から生み出されるそうだ。七海のことを好きだなと思うたび、ナマエはそのことを思い出す。恋愛感情はとても大きいものであり、少し踏み外すと負の方向にエネルギーを持つこともあるだろう。自分は大丈夫だろうかと、ふとした瞬間不安になることもある。
何度も告白して、奇跡的に良い返事をもらえて、気まぐれでも同情でも良いと思っていたのに、そうではなくきちんと好意があるとも言われている。お互いに、特に負の方向への感情の起伏は激しくなく、お付き合いは凪いだ海のごとく穏やかに進んでいる。たぶん私は、今、幸せすぎるのが怖いんだろうな。ナマエはそう思いながら、ぬるくなった2杯目の紅茶を口に運んだ。
さっきから何度も確認しているせいか、時計の針はちっとも進まない。本当は、ただの急務ならば連絡の一つも来るのが普通だということにはとっくに気づいている。つまり、今この瞬間に七海が何か怪我をしたり、考えたくもないが命を落としている可能性もあるということだった。
しかし、ナマエは神に祈らずただひたすら七海の無事を信じて待つ。負の感情が呪いを生むならば、信じる心が力を生んでもおかしくないはずだ。
さらに30分ほど待って、とうとう店を出た。流石にこれ以上居座る図太さは持ち合わせていなかった。仕方ないなと呟き帰宅するため駅へ足を向け、寒さに身を寄せ合うカップルの傍を抜けた。
連絡が遅くなり申し訳ありません。今、どこにいらっしゃいますか
しばらくして、七海からメッセージが届いた。ようやく、ピンと張り詰めていた糸が緩んでいく。すぐに既読をつけたので、続けざまに彼の言葉が送られてくる。
今通話できますか?事情をご説明したいので。
返事を打ち込むのもまどろっこしいので、こちらから通話を開始するとワンコールを待たずに反応があった。すかさず再度丁寧に謝罪を受け、ナマエは苦笑いを溢す。
七海の説明によると、やはり今回の件は急な仕事だったらしい。別現場へ派遣された呪術師の消息が途絶え、呪霊の等級の誤りの可能性があると連絡を受けたため至急対応に回ったとのことだった。
「お怪我はありませんか?」
「今はありません」
含みのある言い方に口を挟みそうになる。しかし、話せないこともあると伝えられているし、これはその範囲に含まれるのだろう。彼ならばきっと「ありません」と答えられたはずなのに、わざわざ「今は」と付け足してくれたのは、恋人に出来る限り嘘をつかないという誠実さの表れだと判断した。
「それは良かったです。連絡を下さってありがとうございます」
「礼を言われるようなことではありません。……怒らないんですか」
「七海さんが理由もなく約束を反故にする方とは思っていませんから、トラブルがあったことは想像が付いていましたし。それに最初に言ったじゃないですか。大抵のことなら仕方ないなあって許しちゃうって」
最初のナマエの想定とは違い、好きだと思う気持ちは独りよがりの一方通行ではないが、この考えは最初から何も変わらない。都合の良い女としてポイントを稼ごうとしているわけではなく、ただ彼の仕事の話を詳しく聞き納得した上でナマエは、日々誰かを助けている七海を尊敬し慕っている。
約束を破られ、彼が死んだことすらも知らされないままひとり遺されたら流石に悲しんだり怒ったり傷付くだろう。しかし今回は、七海は生きていて、きちんと連絡もあった。今胸にあるのは激しい負の感情ではなく柔らかな安堵だけだった。
しかし、言葉にしなかった本心は上手く伝わらなかったらしい。しばらく押し黙っていた七海が、寒々しくナマエを呼んだ。
「ミョウジさん」
「はい?」
「……今回のようなことが今後ないとは言い切れません。きっとまたあると思います。そのまま私が命を落として、アナタに一生連絡が来ない可能性もあります。当たり前の約束が当たり前に果たせない職ですから、私の存在がアナタを普通の幸せから遠ざける。主観的な意見ではありますが、今回のことは私との付き合いを考え直すいい機会だと」
「七海さん」
「はい」
「怒りますよ」
眉を顰めて絞り出した声は、思いの外低くなった。電波の向こうがしんと静かになる。
たぶん、これも彼なりの優しさなのだろう。けれども。
どうしてそんなことを言うんですか。どうして普通の幸せが私の幸せだと思うんですか。どうして私のあなたへの想いを蔑ろにするんですか。そう頭の中で怒って泣いている自分が暴れまわっているのに、何ひとつ声にはならなかった。
人の行き交う駅構内で、途方に暮れポツンと立ちすくんでいた木偶の坊の自分に、お洒落をした女の子がぶつかって行った。すみませんと頭を下げながらも足を止めない彼女は、彼氏らしき男性の元へと駆けて行った。
別に、あれを見たって羨ましくなったりしない。だって私にとっての幸せは七海さんがいることなのだから。そう思ってナマエはすんと鼻をすすった。
「……ミョウジさん、もしかして今外にいるんですか?」
「はい。でも、電車に乗って家に帰るところなんです。すみませんが、頭も冷やしたいですし切っても良いですか」
「待ってください。もしかしてずっと店で待っていたんですか?」
「……こういうところが重いから、関係を考え直せとかなんとか言われちゃうんですかね」
「いえ……。こんなことを頼める立場ではないですが、もう少しだけ待っていただけませんか?会って話がしたい」
「私今、頭に血が上ってしまっているので、日を改めませんか。さっきのが結構ショックだったのでたぶん会っても建設的な会話ができません」
「構いません。現在地を教えてください」
ずるいなぁ、と思う。例え怒っていようとも、彼の頼み事を断れるはずがないのだから。