裸足で深海を行け_6
どこかの店にでも入って待っていて欲しいと言ったにも関わらず、彼女はひどく冷たい風の吹く駅前で待っていた。グレーのマフラーに口元までを埋めて俯いている。結われていない髪が横顔を隠すように流れていた。
「ミョウジさん」
早足で近づき声をかけると、ナマエはのろのろ視線を上げて七海の顔を一瞥したのち、「お疲れ様です」と会釈をして、その角度のまま動きを止めた。電話口で怒りますよと言っていた上、事実その声音からは激しい感情が読み取れていたのだが、目の前で項垂れる彼女は見るからに萎れ傷付いていた。
明るさとポジティブがウリなんですよと歯を見せて笑っていた彼女をここまで曇らせてしまっていることを、七海は不甲斐なく思った。
コートの袖から覗いていた氷のような指先を掬って、近くに停めた車まで案内する。対話が必要だと向こうも思ってくれているらしく、拒絶反応はない。しかし木枯らしの遮られた車内でも、表情は窺えなかった。
エンジンをかけるとエアコンが熱を吐く。何色にも塗られていないはずのナマエの爪が紫になっているのを見て、七海は設定温度を上げた。
「寒い中待たせてすみません」
「七海さん」
「はい?」
「……好きです」
頭を下げたままそう告げられ、二の句が継げなかった。かつて何度も受けた告白とは違い、視線がぶつかることはなかった。
怒って傷付いて、その上で「好きです」ときた。返事に詰まっている七海をよそに、顔を伏せたままのナマエはマフラーの下でもごもごと口を動かす。
「七海さんは優しいから、私にいろんな道を提示してくれてるのだと思いますが、私は今一世一代の恋をしているつもりです。もう何度も好きだと言っているのにこの気持ちは全然伝わっていないんでしょうか。私が欲しいのは普通の幸せではなく、七海さんとの幸せです。そもそも、普通の幸せって何ですか。私にとっては、あなたとの日々も普通の幸せに他なりません。それとも、この重たい感情が七海さんにとっては迷惑なのでしょうか。それなら優しくしないで、ひと言迷惑だと言ってください」
「ミョウジさん、すみません」
そう言って七海は、膝の上に揃えられているナマエの手を握った。つい先刻まで武器を握り血に濡れていた手で彼女に触れることを申し訳なく思ったが、どうしてもこうしたかった。
紛らわしい単語を使ってしまったため彼女は指先まで強張っている。絡まった糸を解くようにゆっくりと互いの思い違いを正す必要があった。
「謝るくらいなら手をどけてください。降りますから」
「いえ、今のはアナタを深く傷付けたことに対する謝罪です。勘違いさせてしまいましたね」
「……」
「アナタの気持ちを疑っているわけではないんです。もちろん迷惑でもありません。ただ、今回のように仕方ないなと許すことを強要させているのではないかと思ったんです。だとしたら、ミョウジさんは私と一緒にいる限り我慢をし続けることになる。それがアナタを苦しめるかもしれない」
「そんなことありません!」
彼女は弾かれたように顔を上げ声を荒げた。今までとは打って変わり熱のこもった目が真っ直ぐにこちらを見つめている。七海は、内心ホッとしながら眉を下げ微笑んだ。
「ええ、そうみたいですね。アナタの言葉で、自分の考えが間違っていたことを思い知らされました。今日一日だけで何度も傷付けてしまってすみません」
「……私の方こそ明るいのが取り柄とか言ってたくせに、不貞腐れていて申し訳ないです」
「そういう部分も見せていただけて光栄です」
「変わってますね……」
「アナタも大概でしょう」
確かに。そう言って笑った彼女の頬にようやく赤みがさしていた。安堵の溜息を漏らしながら無地のマフラーを解いていくナマエの様子を見つめ、もうひとつ確認事項があったのだと思い出した。
「ミョウジさん、私自身もちろんそう簡単に死ぬつもりはありませんが、今日みたいなことはきっと続きます。それでも本当に構いませんか」
「全部覚悟の上です。……ただ、」
「ただ?」
「せめて、亡くなった時は一報が欲しいです。……いや、たかだか彼女相手に難しいですよね。すみません今のはやっぱり、」
「やりようはありますよ」
話が早い。七海は持っていたキーケースから鍵を一つ外し、ナマエに手渡した。差し向けられた物を思わず受け取ってしまった相手は首を傾げ、説明を待っている。
「こ、れは?」
「私の家の合鍵です」
「えっ」
ギョッとしたナマエが片手で持っていた鍵にもう一方の手も添えて、手元と七海の顔を交互に見やる。七海は穏やかに目を細めた。
「同棲相手ともなれば流石に、私の職場から一報が入るかと」
「えっ」
「もちろん急な話ですから最初のうちは通うような形でも構いません」
「えっ」
「まあ自由に使ってください。同棲の覚悟が出来たら、教えてくださいね」
「待っ、えっ?」
元々、急務が入らなければ今日渡す予定で合鍵を作っていたのだ。同棲云々は今思いついたことだが、内容に偽りはない。
しかしながら、目を白黒させて慌てふためく様が可笑しくて、思わずくっくっと喉が鳴った。彼女はハッとして眉根を寄せた。
「これで私の機嫌を取って懐柔してやろうって思ってます?」
「そこまで不誠実なろくでなしに見えますか」
「いや……ええっ、じゃあ本気なんですか? 本当に良いんですか?」
「はい。それに、アナタ相手に本気でなかったことなんてありませんよ」
ナマエは瞬時に耳までを赤に染めた。暖房が暑いですか?と揶揄えば、彼女は口をへの字に曲げた。
「また怒りますよ!」
けれども、もう視線は逸らされなかった。