裸足で深海を行け_9
「良い子だったねー、七海の彼女。ナマエだっけ?」
任務の報告のため高専を訪れると、五条に捕まった。七海はうんざりした顔で応じたが、もちろんあの五条悟には全くもって効果がない。
無視しようとしてもどこまでもついてくるので、根負けして足を止めた。そうしなければ車にまで乗り込んてきそうだった。狭い車内で五条と2人きりなどゾッとする。
「勝手に下の名前で呼ばないでください」
「うわ、男の嫉妬とか……」
「ひっぱたきますよ」
「当たんねーよ」
ケラケラ笑われて神経を逆撫でされるが、反応したらそれこそ面白がられて面倒が増える。フーッと息を吐き、用はそれだけですかと突き放すと五条は肩を竦めた。
「七海。真面目な話、僕はさ、呪術師なんていつ死ぬか分かんないんだから、やりたいことは全部やっとけって思うんだよね。結婚とかもさ。ま、死んだとき相手には悪いけど」
そう言われて思い出すのは、めげずに何度目かの告白をしてきた彼女の明るい声と、車のコンソールボックスに入れたままにしている箱だった。
どこまで知っているんですか、と言いかけて、カマを掛けられている可能性もあることに気付く。
「……」
「どうした? 僕のありがたい言葉に感動中?」
「いえ、同じようなことを以前彼女にも言われたなと思い出しまして。……五条さんは何故そんなことを私に?」
「別に? 背中押してやろっかなーって思っただけさ。それにしても、へぇ、ナマエはそれで七海を射止めたわけだ。策士だな」
「策士というか、真っ直ぐな人ですね」
「うわっ、惚気かよ」
「……貴方に話した私が馬鹿でした……帰ります」
会釈で会話を強制終了し今度こそ去ろうとすれば、白い歯を見せて笑う五条は七海の肩を叩いて言った。
「友人代表スピーチは任せろ!」
「絶対に頼まないので安心してください」
§
玄関の鍵を開けて中に入ると、部屋には明かりがついていた。音に気づいたらしい彼女が、廊下の先から嬉しそうな顔を覗かせる。ほぼ毎日顔を合わせているのに七海が帰るとナマエは必ず幸せを面に出す。背後には揺れる尻尾が見えた気がした。
「お帰りなさい」
「ただいま帰りました」
スーツの形を崩しているポケットの中身を今一度確認した七海は、恋人が待つ明るいリビングへ直行した。
少しキッチンをお借りしました。結構見栄張って頑張って作ってみたんですよ。まあ、お惣菜も混じってるんですけど……。でも、区別つかないでしょ? ……あれ? ちょっと七海さん、話聞いてますか?
彼女は首を傾げる。
部屋には暖かい空気が漂っていた。任務中の、肺が凍るような寒さも一瞬にして忘れてしまうほどに。なにもこれは空調の問題ではない。彼女の居るところが、七海にとっては息をしやすい場所というだけの話だ。
今が良い。タイミング的に五条に背中を押されたようになってしまうのが癪だが、今日はこれを車から持ち出して良かったと心底思った。
「結婚していただけませんか」
目線が合いやすいよう跪き、少し前から用意していた指輪を差し出すと、ナマエは七海の顔を見つめたあと背後を振り返った。予想外のリアクションを受け一瞬呆気に取られた七海だったが、その行動の意図に気付き頭を抱えたくなった。よりによってこんなタイミングで変な思い違いをしなくても良いだろうに。
けれど、そういう抜けたところも引っくるめて、彼女のことをどうしようもなく愛しく思うのもまた事実だった。
「後ろには誰もいません。ミョウジさんに言ってるんです」
「本当に?」
「こんな悪趣味な嘘吐きませんよ」
こちらを見つめていた視線がするりと腕を伝い、七海の手の中の箱で止まる。中央に鎮座している宝石のきらめきが彼女の瞳に反射しているようだった。
元々大きな目をさらに大きくし、混乱を隠しもせず、ナマエは再び七海と目を合わせる。何か話をする時の癖だ。彼女は必ず、真っ直ぐこちらを見据える。
「あの、一つ確認してもいいですか?」
「何でしょう」
「私は七海さんにとっての、普通の幸せになれていますか?」
「ええ、もちろんです。……アナタがいないと私は幸せになれません。これからも側にいてください」
関係が拗れかけたときの自分の無神経な言葉が彼女の中で根を張っていたらしい。少しでもそれが取り除けるように心からの言葉を重ねると、眩しそうに細められた目からぽろぽろ滴が落ちた。
彼女が泣いているところを、七海は初めて見た。思わず立ち上がってその柔らかい頬に手を伸ばす。親指でできる限り優しく、止まらない様子の涙を掬うと、彼女は驚いたように自分の目元に触れた。泣いていたことにたった今気づいたと言わんばかりの表情を浮かべている。
この先、喜び以外で彼女に涙を流させたくないと思った。難しいだろうが、努めることはきっとできる。
「ミョウジさん、返事をお聞きしても?」
「もちろん、喜んで! ……すみません、自分の中に断るって選択肢がなかったので返事をし忘れていました」
「問題があるのかと思って少し緊張しました」
「まさか。初めて告白した日から私はずっと七海さんのことが大好きですから、心配いりませんよ」
七海の手に自分のそれを重ね、いつもの調子でナマエが笑う。境界のなくなった輪郭から、もう一生手放せないであろうぬくもりが伝わっていた。