裸足で深海を行け_8

 七海の家に寝泊りするのが、週の半分以上の頻度になっていた。日用品や私物もじわじわ増えて、もうこのまま居ついても生活には困らない気がする。部屋は快適。会社へのアクセスも悪くない。日当たりも良いし、そして何より彼がいるのだから。
 いつ越して来てもらっても構いませんよと朝食のパンを選ぶような軽さで言われて、正直もうあとは時間の問題だろうなとナマエは我ながら思っている。

「こんばんは、お邪魔します」
「お帰りなさい」

 合鍵を使って家に入ると、奥からよく通る優しい声がした。七海はいつも、他人行儀な挨拶をして家へ上がるナマエに「お帰りなさい」と声を掛ける。そう言われるとナマエは心が暖かくなるし、今日も泊まっていこうかなという気にさせられる。彼は非常に頭の切れる策士なのである。
 ドアにはめ込まれたすりガラス越しに光が漏れていた。部屋に入れば、料理の手を止めた彼が穏やかな瞳を向けてくれる。

§

「七海さん、これは何でしょう」
「ああ、そういえば初めて見せましたね。いつも持ち歩いてる、商売道具のようなものですよ」
「オワ……ま、巻いてるものを解いて使うんですか?」
「いえ、このまま切ります」
「切れます?」
「切ります」
「なるほど……」

 ソファーに置かれた黒い布から棒状の何かが突き出していた。郵便物に目を通していた七海を呼ぶと、彼は事も無げに布の中身を見せてくれた。
 少し見ただけでも彼の仕事に関係するものなのだろうと容易に想像が付く。もしかしたら、元々この情報を明かすつもりで、こちらが質問しやすいようこんなところに置いていたのかもしれない。
 鉈のような刃物を連想させるフォルムをしたそれは、刀身と思われる部分がぐるぐる巻きになっている。書かれているのはナマエには到底読めない文字。日常生活を送っていれば絶対に見かけることのない姿形をしているからか、かなり物々しい雰囲気を醸し出していた。心なしか周囲の空気がひんやりしている気もしてくる。勝手に移動させなくて良かったと心底思った。

「これ、銃刀法違反とかにならないんですか?」
「私の所属団体が警察とも一部関わっていますし捕まりはしないでしょうが、見つかると面倒なので普段は背中に背負って隠しています」
「背中に? なんかアレみたいですね、授業中背中に定規を入れて、寝ても姿勢が崩れないようにする学生のライフハック」
「漫画の読みすぎでしょう。あんなこと現実でする人いませんよ」
「えっ?」
「……は?」

 思ったことをそのまま口に出すと、行儀悪くもソファーアームに腰掛けていた七海から絶対零度の視線が飛んできた。あり得ないものを見る目つきは厳しく、心が折れそう。
 学生時代彼に出会っていれば、自分は背中に定規を入れて授業を受けたりせずに青春を過ごし、もう少しちゃんとした大人になったかもなあ。そう思いかけたが所詮は机上の空論。今こうして彼との日常を噛みしめて幸せに過ごせているのだから、出会うタイミングはきっと正解だったのだろう。
 自分を納得させ、先の失言を誤魔化すように笑いかければ、「せめて会社ではしっかり働いてくださいよ。社会人なんですから」と彼に鼻をつままれたのだった。果たして社会人は、こんな嗜められ方をするものなんだろうか。違う気がするなあ。しかし考えたところで、お互いに“普通”の答えなど持ち合わせていないのだった。
 ナマエは、自分の鼻を労わりながら、ひと通りの説明を終え鉈を片付けようとする七海へ待ったをかけた。動きを止めてくれたので、右手に握られた武器に対して手を合わせる。
 彼の商売道具、おそらく武器になっているのであろうコレは、彼の命を直接的に左右するものに違いない。彼の身を守って欲しいと願うのは無機物相手には荷が重いか。せめて、常に強固でありますようにと何度も念じて、念じて、目を開けると、七海が怪訝そうな顔をしていた。

「何してるんですか」
「安全祈願です」
「はあ、神社じゃあるまいし……」
「でも、ポジティブ一直線の私のお祈りって、ご利益ありそうと思いません?」
「どういう理論ですか」
「あはは、まあ良いじゃないですか。お祈りって別に悪いことではないですよね?」
「構いませんが、呪わないでくださいよ」

 ふむ。ナマエは考え込む。自分が七海へ向ける思いは愛だという自負があるし、それを歪に捻じ曲げるほど擦り切れてもいないので、呪うなどあり得ないと胸を張って言える。
 けれどももし愛が現実に機能するならば呪いにも似た効果を持ちそうだ。

「安全であって欲しいって思いが呪いになるなら、ある意味アリかもしれませんね。……やだな、冗談ですよ。そもそも出来ませんし。だから、そんな怖い顔しないでください」
「元からこういう顔です」
「嘘ばっかり。いつももっと優しい顔してます」

 少し疲れたようにも見える頬に手を伸ばすと、瞬く間に彼の眉間のしわが消えた。七海の精神を自分の手で揺すぶることができているのかと思うと、胸がいっぱいになる思いだった。こういうところも重いのかもしれないが、好きなんだからもうしょうがない。
 ソファーに膝をついて、まだ跡の残る眉間にキスを送る。ピクリと動いた眉に気を良くしてそのまま唇も合わせた。しまいに、さっきの仕返しの気持ちも込めて高い鼻に噛み付けば、涼しげな瞳の奥に確かに熱が浮かんで見えた。
 手首を捕まえられ、やっぱり今日も泊まることになったなと、そう思うのだった。

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