裸足で深海を深海を行け_10
「七海さん!スーツの裏地に血が付いているんですが!」
「返事を待たないノックって、意味ありますか?」
脱衣所でワイシャツのボタンに指をかけていた七海に、呆れた様子で指摘された。今さら恥ずかしがるような関係ではないが、親しき中にも礼儀ありだ。マナー違反の自覚のあるナマエは軽く謝って戸を閉めかけ、手を止めた。
「いやでも七海さん怪我して……ないですね。あれ?」
「まあ、今は」
血の付いたスーツを片手に首を傾げた。彼のワイシャツには血どころかシミひとつも見当たらなかった。そんなはずは。一言断って服をめくり腹部を確認したところ、鍛え抜かれた身体の一箇所には無理やり閉じたような傷跡があった。……こんな傷あったっけ? いや、初めて見たはずだ。なのに、まるで元からあった古傷のように、身体に馴染んでしまっている。
狐につままれたような気分だ。顎に手を当て考え込み、そこでようやく一つの可能性に思い至った。そうだ、前にも彼はこういう含みのある返事をした。
「……これは聞かない方がいいやつですかね」
「話せる範囲の外ですね。ぼかして言うなら、特殊な治療受けた、と言ったところでしょうか。普段は痕もここまで残らないんですが、今回は少し特殊で。驚かせてすみません。それに、スーツまで気が回らなかった」
そう言うと七海はナマエの手からスーツを抜き取り、汚れた部分を隠すように折り畳んだ。能天気な自分にもよく気を回してくれる彼が、いつも通りではなくなってしまうほどの怪我だったのだろうか。
生々しい傷のあったであろう腹部を見ても血は滲んで来ないし、彼は普段通りの涼しい顔。ポツンと残っている皮膚の引き攣れを除けば、今朝隣で目覚めたときと何ら変わりはなかった。
「いえ……。でも、そっかあ……。怪我しても、治して直ぐにまたお仕事なんですよね。私は今回みたいな目に見える証拠がないと怪我にも気付けない」
悔しいなあ。そう思いながら小さく畳まれた薄茶色のスーツを見つめる。中に隠された血はかなりの量だった。初めて七海の商売道具を見たときもその物々しさに気圧されたものだが、ああいうものを使う以上怪我の度合いも大きいのは当たり前なのだろう。
守られるばかりの一般人である自分の無力さを痛感する。だからと言って、戦える力があるわけでもない。例え籍を入れたとて、こればかりはどうしようもないことだった。
「ナマエさん」
七海の目が息苦しそうに細められた。
その様子から大まかな感情を読み取ることはできるが、相手の考えを一から全て言い当てるような芸当はナマエには難しい。彼は波のない海のように心中を隠してしまえる人なのだ。だから、彼相手には言葉を疎かにしたくない。ナマエは常々そう思っている。
思わず声に出た独り言のせいで心配をかけてしまったが、何も自分は、無力さを嘆いて終わる性格ではない。しくしくと傷つくより、前を向く方が性に合っているし、言葉足らずで拗れかけたときの二の舞は踏まないと決めている。
ナマエは七海を見上げ言葉を紡いだ。
「別に、文句があるわけでも、無力さに傷つき悲しんでるわけでもないんです。少し考えていただけなんですよ」
自分には出来ないことがあるように、自分にしか出来ないこともまたあるはずだろう、と。
「……私はこれからも七海さんの怪我にはなかなか気付けないだろうし、情報の制限がある以上七海さんのお仕事を完全に理解することもできません。でも、もし何か私にできることがあるなら教えてくれませんか。あなたの息苦しさを少しでも取り除きたい」
真っ直ぐ伝えると、七海はフーッ長く息をはいた。呆れたときだけでなく、気持ちをリセットするタイミングにもよく出る彼の癖だ。ナマエは条件反射で背筋を伸ばした。もはや恒例となりつつあるその様子を見つめ、彼はまなじりをやわらげる。
「そうですね。……なら、ナマエさんはいつも通り笑顔でいてください」
「そんなことで良いんですか?」
ぽかんと口を開けて聞き返すナマエに、七海は穏やかな笑みを携え頷いた。
「はい。……“そんなこと”と軽く言いますが、私にはできないことですよ」
「それはそうかもしれませんが……。いつも通り過ごすだけになりませんか?」
「十分です。これまでも、いつものアナタに何度も救われていますから」
「私に?」
「ええ。呪術師にとって、日常ほど尊いものはないんですよ」
彼は、まるで存在を確かめるようにナマエの左手を掬った。シンプルなデザインの結婚指輪を見つめる七海の手はひどく冷えている。傷は癒えても、血は減ったままなのかもしれない。
日々戦う彼の手は、ナマエよりうんと硬い。それを両手で包み自分の熱を分けながら、決心して口角を上げた。
「……わかりました。それなら何があっても能天気に笑ってみせますよ」
彼が呪いと対峙する時ではなく、自分との時間を日常と呼んでくれたことが嬉しかった。その事実だけで、表情は自然とほころぶ。
自分にできる方法で、精いっぱい彼を幸せにしたいと思う。
「それともう一点いいでしょうか」
「はい?」
「アナタももう“七海さん”ですよ」
「……そうでした、建人さん!」
この先もきっと、どうしようもないことはまた現れるだろう。
そのたび私たちはこうして互いの手を取り合って、2人で笑って乗り越えてゆく。