「すーばーるー!泊りきたぞー」
勝手知ったるなんとやらで、遙は意気揚々と工藤家のリビングの扉を開けた。視線の先でコーヒーカップ片手に新聞を読んでいた昴が、薄く微笑みながら「ええ、…おかえりなさい」と告げて座っていたソファから立ち上がった。
「ただいまー」
カレーいい匂いだ、と遙がキッチンに向かう昴の後を追い、食器棚から自分の分のコーヒーカップを取り出す。「…足りなくなっていた画材は調達出来たんですか?」と昴がカレーに火を入れながら聞いてきたので、遙は今日あった事を話すべく「画材は調達出来たんだけどさ…」とコーヒーを淹れ終わると、昴の方を向いた。
「俺ストーカーにあってたみたいでさ」
「……」
「いやあ、全然気付いてなくてすげえびびった」
「……遙、」
「腕掴まれちゃってひやひやしてたら、褐色肌のお兄さんが助けてくれてさ。話しぶりから警察かと思ったら、探偵だって!いやあ、かっこよくて正直しびれた」
「……(褐色肌、だと? ―― いや、それよりも)何故、俺に連絡しなかった?」
「…昴…隠しきれてない…赤井さんが滲み出てるけど……スマホ、車の中に置き忘れてたから…」
「…ありえんな。携帯しろ…―― 腕を、見せてみろ」
「えー…いや、それは、ちょっと」
問答無用というように、昴が狼狽えるような遙の傍に寄り、両方の長袖カーディガンの裾を上に上げた。昴が、息を飲んだ。片方の腕に、大きな手の痣が濃く残されていた。「…痛いだろう、君はひ弱だからな」と昴が感情を抑えて言葉を置くように告げた。遙は昴の様子に気付いた様子もなく「ひ弱ってなんだよ!…いや、まあ、ひ弱だけど……」と不貞腐れたように答えて、両手を掴む昴から離れた。昴が、手当をしようと口を開いたところで、遙の焦るような声に阻まれた。
「うわあ昴!カレー!火!火つけたまま!」
遙は昴を押し退けて、慌てて火を止めて、換気扇をフルパワーにした。傍に置いてあった味見用の小皿に、カレーを少し取ってから息を吹きかけて冷ますと、「焦げてませんように…!」と呟いて意を決して口に入れた。一拍して昴を見ると、そのまま小皿を昴に近付けた。
「このカレーは無事だよ昴…!」
「…それはなによりだな」
昴も味見してみろ!と安心したように微笑む遙に、昴も小皿を受け取って味見した。確かにこのカレーは無事なようだな、と昴は遙の痣を見つめながら思った。
「さ、昴!早くカレー食べようぜ!…昴が洗ったお風呂にも入りたいしな〜」
遙は、「……ああ」と、昴…いやもう滲み出ている赤井に、さっきの件はもう聞かれなさそう!と、焦げそうになっていたカレーに内心で深くお礼を言いつつ、食器棚からカレー皿を出したのだった。
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「あ〜すばる…お風呂ありがとう…」
カレーを美味しくいただいて、昴の洗ったお風呂にも入った遙は、満面の笑みで昴に背後から声をかけた。そのまま「何読んでんの?」と昴の両肩に手を置きながら覗き込んだ。お風呂から上がったばかりの遙の優しい香りが、昴の鼻腔を擽った。
「―― ホームズの本です」
「そういや、昴もコナンと一緒でシャーロキアンだったかー」
「ええ…」
後ろから、するりと遙の細くあまり日に焼けていない白い手が伸びてきて、ページを捲る。…昴は自分の喉が鳴る音がやけに自分の耳に大きく聞こえてくるのを感じた。数ページ捲ってから、「俺も久しぶりに小説でも読んでみるか…」と言うと、遙は昴から離れた。
は、と微かに息を吐く昴に気付いた様子もなく遙が「昴もお風呂入って来いよ」と笑ったので、昴は「そうですね」と短く答えて、リビングを後にした。
リビングの扉を閉めた昴が、小さく呟いた。
「……これが、生殺しか」
そこには、FBIきっての切れ者と呼ばれる捜査官の姿など、見る影もなかった。
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―― 昴がお風呂から上がりリビングに戻ると、そこに遙の姿はなかった。冲矢昴の変装を解いた赤井が、テーブルの上を見ると、『疲れたから先に寝る!おやすみ』と書かれた遙からのメッセージが書置きされていた。
リビングを出て、救急箱を手に赤井は工藤家にある遙の部屋の扉をそっと開けた。ベットサイドの小さな明かりに、遙が照らされていた。ゆっくりと近付いて、穏やかな表情で眠る遙の姿をじっと静かに見つめていた赤井が、音を立てないようにしてベットの端に座ると、遙の痣がある方の腕を撫でた。起きる様子はなく、深い眠りについている。赤井は触れる程度にその痣に口付けた後に「…君は本当に目が離せないな」と小さく呟いて、救急箱から湿布を取り出して貼った後に、きつくないように包帯を巻いた。
―― 部屋を出る前に遙の髪を柔く撫でてから、赤井は静かに部屋を後にした。