男の名は冲矢昴

「昴ー、コーヒーのおかわりよろしく!」

ぐーっと背伸びをした遙が、キッチンに立つ男、昴の背に向かってそう声をかけた。その声に振り向いた昴が、「はい、分かりました」と快く答えたのに、遙は嬉しそうに「サアンキュウー!」とカタコトの発音で告げて微笑んだ。…どうやら英語は苦手らしいな。と、ふっと小さく微笑んだ昴が、遙から白猫模様が可愛いマグカップを受け取ると、淹れたばかりの熱いコーヒーを注いでくれた。

「あ、今日はドライブに行く予定ある?」
「ええ…一緒に行きますか?」
「行く!」

あ、帰りに本屋寄ってくれないか?優作さんの新作出てんだ!と昴の淹れたコーヒーを飲みながら、目を細めてそう言う遙の様子を、昴は優しげに微笑んで見つめた後、「いいですよ…あなたとなら何処へだって」と柔らかく答えた。遙は「さっすが昴!優しさの塊だ!」とぽんぽんっと軽やかに昴の肩を叩いた。

――…殉職したはずの赤井秀一が、変装して生活することを知った遙は、数週間はぶすくれたまま過ごした。コナンが謝れど「知らん」と言うようにツーンとあさっての方向を向いている。途方に暮れたコナンに助け舟を出してくれたのは、有希子だった。

「まあまあ、遙くん!そんなに怒ってたら困っちゃうわよ!あなたに心配かけたくなくて、コナンくんは言うか言うまいかすっごく悩んでたのよ〜!とってもあなた思いじゃない!コナンくんのワトソンなんだから、もう許してあげなさいよ!」

笑顔で有希子にそう言われれば、遙は折れるしかなかった。有希子には、幼い頃から何故だか頭が上がらないのだ。短く溜息を吐いた後に「わかったよ、有希子さん…」と呟いた後、コナンをじとっと見つめてからふっと苦く微笑んで「…信用されてないのかと思うから、しっかり言ってくれ…コナン」と眉を下げて微笑んだ遙の様子に、コナンがはっとした表情をした後に「…信用してねえ訳ねえだろ!…っわりい…今度からは、ちゃんと言うよ」と自分を恥じるような態度で答えた。

「それで…赤井さんは、殉職したことにして、これからどうするんだ?」
「ああ…そのことなんだけどよ、灰原を守るために、近くに住むことにしたんだ」
「へえ、それはありがたい…哀を守るのに赤井さんがいてくれたら敵無しだ!安心して任せられる」
「ああ、博士の家の近くの木馬荘ってとこあんだろ?そこで生活してもらう予定だ。まあ、赤井さんもずっとって訳にもいかねえから、遙はいつも通り、灰原の側にいてやってくれ」
「もちろん!哀は俺の癒しで、大事な子だ。了解、ホームズ」

コツン、と拳を合わせて微笑み合うコナンと遙の様子をじっと見つめていた赤井に、遙が振り向いてにっと無邪気に微笑んだので、赤井は微かに目を丸めた後、目を細めて口元を緩めて微笑んだ。

「赤井さんは、変装するとどういう設定になるんだ?」
「名前は冲矢昴。大学院生の設定だ。そんで…遙には、昴さんと親友になってもらう」
「…親友ね、了解」

コナンに頷いて答えた後、遙は座っていたソファから立ち上がってドア付近に立っていた赤井に近付いた。そして、すっと手を差し出した。「…哀のこと、そしてこれから親友になる俺のことも、これからよろしくお願いします『昴さん』!」と切実さの交じる声音に、赤井は差し出された手を握り返して頷いた。「ああ…よろしく頼む、遙」と耳に心地の良い声が、遙の心に優しく沁みた。

…冲矢昴との関係が、始まった日だった。

「あ、コーヒー飲み終わっちゃったか…」

ぼうっと外を眺めながら、物思いに耽りつつ飲んでいたコーヒーは、もうマグカップには入っていなかった。書類に目を向けていた昴が、その声に「おかわり入りますか?注いできますよ」と聞いてきたのに、遙は首を振って椅子から立ち上がった。そうして、同じく空になっている昴のマグカップを手に持ってから「今度は俺が注いでくるから、昴は早くその書類読み終わること!」カラカラと笑って、キッチンに向かう遙の姿に、昴は片目を開けて穏やかに微笑んだ。鼻歌を歌いながらコポコポと音を立ててコーヒーを注ぐ。キッチンの開けている窓から入ってくる風に、柔らかそうな美しい黒髪が遊ばれていて、彼の白い項を擽っていた。

「…早く、済ませるさ」

「んー?なんか言ったー?すばる?」と気の抜けた声に昴がふっと微笑んで「いいえ」と告げて「ただ…」と言葉を続けた。

「君と出掛けるのが楽しみです」