「んじゃあ博士、みんないってらっしゃい!あっ、哀!今日の晩御飯楽しみにしといて!」
「……遙、あなたも一緒に乗りなさい」
「いやいや!?昴を新一の家に案内しなきゃいけねーから無理だよ、ごめんな、哀…」
その言葉に、不機嫌そうな灰原の表情が陰りを帯びた。遙は、眉を下げて小さく息を吐いて「しょーがないな、哀は」と微笑んで、灰原に手招きをした。車窓に身を乗り出す際にコナンの足を踏んだらしく「い゛っ…!?」と短い悲鳴を上げて目尻に涙を浮かべたコナンが、灰原を横目に睨んだ。灰原はそんなコナンに「あら、ごめんなさいね」と悪びれもなく告げて「なによ」と遙の隣に立つ昴を警戒しつつそう答えた。
遙はコナンの足に詫びつつも、灰原の柔らかな髪を一つ撫でて「待ってるから」と安心させるような笑みを浮かべた。
「待ってるよ、博士の家で。哀が帰って来るの…ずっと、さ」
そう優しく言葉をかけて、遙は「なーんも心配しないで、必ず俺のとこに帰って来てくれよ、哀」と灰原の前髪をくしゃりと柔くかきあげて額に口付けた。すると、途端に灰原の表情が驚愕と赤みを帯びて、遙に「ちょ、ちょっと…!何するのよ!バカね!」怒鳴る様に言う姿が何とも可愛らしく、遙は軽やかに笑ってから「もう大丈夫だな、じゃ、いってらっしゃい」と博士の車から離れた。
遙と灰原の様子を見ていた歩美と光彦が、照れた顔をしながら手を振り、博士が「留守はまかせたぞー!」とゆっくり車を走らせ始めた。門を出る際、コナンが顔を出して「ごちそうさま」と口パクで告げた。遙は「気を付けてなー」と声を上げると、昴の方を向いて笑った。
「さっ!昴、行くか!」
「…ええ ―― ああ、その前に…遙」
「ん?なに?」
立ったまま動かない昴が、ゆっくりと遙を見つめた。遙は不思議そうに昴を眺めてから、新一の家に歩き出していた歩みをやめて、昴の傍まで戻った。じっと見つめてくる昴に、変装なのにまじかっこいいよなこの冲矢昴…とこの目を逸らしたらイケメンでもないけど俺の中の何かが負ける…!と遙も見つめ返していると、昴がふっと手を伸ばしてきた。そっと遙の首から顔の輪郭を昴の美しい指先がなぞる。そして、先程遙が灰原にしたように前髪をくしゃりとかきあげると、遙の白い額が無防備に昴に晒された。きょとっとした様子の遙の視線が、昴を見つめている。昴が、そっと顔を近付けて、遙の額に蜜やかに口付けを贈った。
「…では、行きましょうか」
「な、な、な…!すっ、すば、…な…っ!?!?」
「ふっ、かわいいな」
……さあ、行きましょうと、遙の手を優しく掴むと、歩き始めた。動揺を隠せない遙は、新一の家に歩みを進める昴に目を白黒させ頬を恥ずかしさから真っ赤に染めていた。焼けるような感覚が、昴に掴まれてる手から遙を覆う。イケメンって、すげえ…!冲矢昴が赤井秀一なんて信じられねえ!と、声なき声で唸ったのだった。
――…つーか、かわいいって言うな!!
▼▲
工藤家に着いてからまだ火照る顔をパタパタ仰ぎながら、遙は玄関の鍵を開けて中に入り、「ようこそ、工藤家へ!」と昴を招き入れた。家の中を案内して周り、最後にリビングを案内して、遙はソファに座った。昴も隣に腰を下ろす。
「新一の部屋以外は、何処の部屋使っても構わないから!好きなとこ、昴の部屋にするといいよ。……あっ、2階奥の部屋は、俺がよく使ってたから、俺の私物置いたままかも…」
「…ホー…その部屋は、後で見てみるとしましょう」
「わー!っ入るな!昴今日なんか意地悪だな!」
遙がぶすくれた表情をして昴の頬を抓った。それに昴が「痛いな」と全く痛くなさそうな声音で告げた。抓るのをやめると、遙が「コーヒーでも淹れるよ」と立ち上がってリビングからキッチンに向かった。「どのコーヒーがいっかな〜」と呟いている遙の様子を、昴が口元を微かに上げて笑みを浮かべた。
―― 遙が、明美のたった一人の妹である宮野志保の額に口付けた瞬間、じりっとしたモノが赤井の胸を焼いた。重苦しい感情が、赤井の心を黒く渦巻いてどうしようもなくなった。すぐに離れていった遙と志保との間に、固い絆と深い愛情が見えて、更に赤井の心に影を落とす。…この感情に、答えをつけるべきではないだろう。そう、赤井は思った。遙は宮野明美を深く友として愛し、その妹である志保を大事に見守っている。志保のためなら、なんでもするだろう。…それは、明美を想う赤井も同じだ。彼女を守るために、赤井もこうして変装し、冲矢昴として志保の傍にいるのだ。…愛した女性である明美を忘れてはならない。この感情に名前をつけてしまえば、…それをもし遙が知ってしまったら、きっと酷く傷ついてしまうだろう …――……でも、それでも、自分も彼に触れたかったのだ。赤井は先程遙の額に触れた自分の唇を、するりと撫でた …――
「すーばる?」
「っ………遙」
「どうしたんだよ、すっごい思い悩んだような顔して ―― はい、コーヒー!」
「…ありがとうございます」
朗らかな表情でコーヒーを自分に差し出す遙に、思考の渦に飲まれていた昴は気配に気づかないほどか…と思いつつも遙からコーヒーを受け取ってお礼を告げた。アチッ!と呟いて美味しそうにコーヒーを飲んだ遙が、そっと「なんか悩んでんの?哀のこと?それとも黒の方?」とソファの上で体育座りをしながら湯気の立つブルーのコーヒーカップを眺めた。昴がその言葉に遙を見て「…少し違いますが、似たようなことですよ」と答えたので、遙は少し口にするのを躊躇うような仕草をした後に、昴の方に体ごと向いた。
「あのさ、俺言わなきゃなって思ってたんだ。…明美のこと、ずっと想ってくれてるのすごく嬉しいんだ。…志保のことも、こうして傍で守ってくれてるの感謝してる。俺じゃ力になれないこともあるし、100%完璧に志保を守ってられなかったから……でもさ、でも、赤井さんも誰かをまた一番に大事にしてくれていいからな。…明美こと、忘れずに想ってくれて、志保のことをこうやって守ってくれてるだけでも、本当に、心から嬉しいから」
―― 赤井さんの人生は、赤井さんだけの人生だから。もっと安心を求めてもいいと思うよ。
遙は、目を細めて柔らかく微笑むと、「明美も、きっと同じ事思ってるよ」と懐かしげな声音で、遠くを見つめるような眼差しを、窓から見える景色に送った。昴は、今自分が悩んでいたことがふっと消化されていくのが分かった。『赤井さんの人生は、赤井さんだけの人生だから。もっと安心を求めてもいいと思うよ』と、彼は真っ直ぐな瞳で昴にそう言葉を捧げた。考えなくても、いいことだったな…と昴はふっと小さく笑みを溢した。遙の淹れてくれたコーヒーが、昴の体に流れて行く。何故だか、酷く甘い気がした。
この感情に、名前をつけることを、たった今、彼が許してくれたのだから ―――
「遙、これからも末永くよろしく頼むとしようか」
「もちろんだよ、昴!」
「ああ、長期戦にはなるだろうがな…」
「?」