後編

名前にシチューも持ってきてくれた数日後から、コナンに連絡先を教えてもらったというメールとともに昴からドライブに行きませんかとか夕飯を作りすぎてしまったので一緒に食べませんかなど色々なメールが名前のメールに送られてくるようになった。
名前は何故こんなに誘ってくれるのだろうか…と不思議に思ったが、昴と話していると楽しいのでまあいっか、と微笑んで昴からのほとんどの誘いをイエスと返していた。

今日も昴から「昨日のドライブで名前くんの新しい一面が知れて良かったです。良ければ今度一緒に料理をしませんか?」とメールが届いた。名前はそれに「昴さんとのドライブ楽しかったです。はい、俺で良ければ一緒に料理したいです」と返す。何度目かの夕飯を一緒に摂った際、昴から「良ければ私のことは冲矢ではなく、昴と呼んでいただきたのですが…」と告げられてからは、名前は『冲矢さん』と呼ぶのをやめて『昴さん』と呼ぶことにしたのだった。返信を終えて携帯を置いた名前は、お昼までに終わらせようとしていた仕事を終わらせるべくパソコンと向かい合った。

ふうっと短く息を吐いてコーヒーを飲んだ名前が「よしっ」と呟くと、椅子から立ち上がり着替えを済ませると部屋を後にし、名前は少し遅めの昼食を摂ろうとポアロに向かった。

外はいい天気だった。外の新鮮な空気を深く吸い込み足を進めると、ポアロが見えてきた。何食べようかと考えていると、大尉の姿が見えたので、名前は「大尉!」と表情を輝かせると駆け出した。ふわふわで柔らかく、毛並の美しい大尉の体を持ち上げて「久しぶりだね大尉」と話しかけながら喉をあやせば、大尉が嬉しげに「にゃあ」と鳴いて答えた。名前が「ご飯はもう梓さんにもらった?」と言葉を続けたと同時に、チリリン、とポアロのドアベルが鳴ったので梓かな?と振り向いた名前の瞳に映ったのは、金髪が美しく健康的な肌の色をした、端整な顔立ちの青年だった。てっきり梓かと思っていた名前は、そのままその青年と見つめ合ってしまったが、大尉の「にああっ」という不機嫌そうな鳴き声に「わっごめんごめん大尉。今下ろすねっ」と慌てて大尉を地面にゆっくりと下ろすと、一度伸びをした大尉が、雑踏の中に紛れていった。

「えっと、すみません…怪しいものではないですよ!?ポアロにご飯食べに来たんです!」
「怪しいだなんて思っていませんよ。大尉と戯れる貴方の姿を愛らしく思ったので、見ていただけです」
「あ、え…あ…えーーっと!」
「―― ああ、道を塞いでしまってましたね!いらっしゃいませ」
「えっ……と、いうことは新しい店員さんですか?」
「はい。安室と言います。よろしくお願いしますね」

すごい、この人たらしだ…名前は安室と名乗った目の前の青年に「あ!こっこちらこそ!よろしくお願いします!」と慌てて頭を下げると、ポアロの中へと足を踏み入れた。すぐに梓の「あっ!名前さん、いらっしゃいませ!」と明るい声が聞こえてきて、名前はほっと息を吐くと、安心したように梓に「こんにちは」と答えると、一番奥の特等席に腰を下ろした。メニューを開いて見ると、新しく【サンドイッチ】が増えていたので、名前はお冷を持ってきてくれた梓に、コーヒーとサンドイッチを注文した。

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ポアロに置いてある雑誌を読んでいると、影が出来たので「梓さん、ありがとうございます」と微笑んで顔を上げると、そこに立っていたのはコーヒーとサンドイッチを持った安室の姿だった。名前が慌てて「すっすみません…!」と謝ると、安室は笑って「いいえ」と答えて名前の前にコーヒーとサンドイッチをゆっくりと置いてくれた。

「梓さんと親しいということは、よくここにはご飯を食べに?」
「あっ、はい!ポアロのコーヒーがとても好きで」

ゆったりと微笑む名前の姿に、安室が目を細めた後「ありがとうございます」と答えた。名前は安室がカウンターまで戻るのを眺めると、サンドイッチに目を戻して手を合わせた。「久しぶりに食べるなあ…」と小さく呟きながら一口食べると、名前は目を丸くして目を輝かせた。

「お、美味しい…!」
「…!」

名前の声が、安室の耳に届いた。幸せそうな表情でサンドイッチを食べ続ける名前が安室の瞳に映る。安室がじっと見つめていると、隣でグラスを拭いていた梓が「名前さん、よっぽど安室さんの作ったサンドイッチ美味しいのね!」と笑いながら安室に微笑みかけた。安室はそれに「…ええ、あんなに喜んでもらえると嬉しいです……梓さんは、彼とは親しいんですか?」と首を傾げると、梓が頷いた。

「名前さん、週に3日くらいの頻度で通ってくれてるの!すごく優しいんですよ!」
「へえ、それは…僕も仲良くなりたいものですね」
「安室さんならすぐ仲良くなれますよ!」

梓が安室に微笑みながら、拭いたグラスを棚に戻そうと背中を向けると、「梓さん…!」と名前が声をかけた。梓がそれに「どうしたんですか、名前さん?」と振り向くと、満面の笑みを浮かべて「サンドイッチすっごくおいしかったです!」と告げた。それに梓がきょとん、とした後笑って「それ、作ったの安室さんなんですよ!」と答えると、名前が目を丸くさせて安室を向いた。安室が、「僕のサンドイッチをそんなに喜んでもらえるとは、嬉しいですね」と笑みを浮かべると、名前はそれに目を細めて微笑みを返した。

「あなただったんですか、本当に…久しぶりに食べたサンドイチがこんなに美味しいとは…とても幸せなお昼でした」

「ごちそうさまでした!安室さん」と柔らかく安室に告げると、名前は梓に「すみません、会計お願いします」と声をかけてレジに向かった。
レジで梓と「コーヒーもいつもと変わらず、とても美味しかったです。マスターによろしくお伝えください」「ありがとうございます!マスターに伝えておきますね!」と楽しげに会話をしてポアロのドアベルを鳴らしながら、出て行った。

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「美味しかったなあ」


名前が嬉しげに呟いくと同時に、携帯のバイブレーションが鳴った。振動の長さからしてメールではなく電話だったので、画面に表示された名前を見ると昴からだった。名前が通話ボタンを押して「もしもし?」と言うと、昴が『こんにちは、名前さん……実は、今名前さんの部屋の前にいまして。カレーのお裾分けを持ってきたんですが…』と困ったような声音が聞こえたので、慌てて「今すぐ帰ります!というか今帰ってる途中なので…!待っててください!」と答えると名前は昴を少しでも待たせないために家路を急いだのだった。


「昴さん…!」
「ああ、名前さん…急がせてしまったみたいですみません。電話をしてからお伺いすれば良かったですね…」
「いいえ!どうぞ入ってください」

鍵を開けて昴を部屋に入れて、コーヒーを淹れようとキッチンに立つ名前の背後に気配を感じたので振り向けば、そこには昴が立っていた。あまりの近さにぎょっとした名前が「すっ昴さん…びっくりしました…」と困った表情で昴を見れば、小さく眉を顰めた昴が「…名前さんは、香水をつけるようになったんですか?」と問われたので首を傾げて「いえ…俺は香水はつけませんが…」と不思議そうに答えた後に「あ、」と小さく呟くと「そういえば、ポアロに新しく入った店員の男性…えっと、安室さんという方なんですけど…その人から確か、ちょっと甘い匂いがしたような…」と言葉を続けると、嬉しそうに微笑んだ。
昴がその表情を見て、拳を握り締めると「…安室、さん…ですか」と確かめるように安室の名前を復唱した。その声音は、いつもよりも低かったが名前は気付くことなく「はい、彼の作ったサンドイッチがとても美味しかったんですよ!」と頬を薄く赤色に染めて昴に興奮気味に告げた。

「今まで食べた色んなサンドイッチより一番美味しかったんです」

ポアロに行く楽しみが一つ増えました、と水を入れたヤカンを火にかけた。昴が食卓テーブルに置いたカレーを見てみようと思ったが、動く気配のない昴の様子に「…昴さん?どうかされたんですか?」と眉を下げて問いかけると、「…名前さん」と掠れた声で口を開くと「…私がサンドイッチを作ったら、食べていただけますか」と名前の頬に手を滑らせた。…柔く、あたたかい肌だ。あまり日に焼けていない名前の肌は、日に当たると透けてしまいそうなくらい美しい。名前が昴の行動に目を丸くしたが、やがてふっと静かに微笑むと目を細めて頷いた。

「それは嬉しいですね。昴さんの作るご飯はとても美味しくて優しい味がするので…あなたの作るサンドイッチが食べられるのが楽しみです」

昴の手のひらの上に手を添えて軽く数回叩くと、名前が照れたように微笑んだのだった。

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昴を見送った後、食卓テーブルに置いていた携帯のバイブレーションが鳴った。名前が受信ボックスを開くと、ジョディからのメールが届いていた。名前が「ジョディさん!久しぶりだなあ」と嬉しそうにメールを開いて、そこに書かれていた内容に、はっと息を飲んだ。

≪…名前、言おうか、どうしようか…悩んだのだけれど…やっぱり伝えておこうと思ってね………―― シュウ、ね…殉職したのよ…≫

…神様が、残酷だということは知っていた。もう、ずっと前から。…それでも…お願いだから、嘘だと言ってくれないか。喉が引き攣って、うまく息が出来なかった。こんなことを、一体誰が予想した?彼が、もうこの世に存在しないなんて。名前の視界が、ぼやけていく。携帯の画面に、涙が落ちていく。
ずっと、あまり考えないようにしていた。その内、きっと…あれも一つの若かりし頃の恋だったと、笑って誰かに話せるときが来ると信じていた。けれど、そんなの絶対無理なことだとも理解していた。だって、どうしたって、赤井が愛おしい。本当に心から、愛おしいのだ。心通い合わせること叶わなくとも、ずっと密かに想い続けることは許してほしかった。
ただ、それだけだった、のに。

お願いだ、お願いだから……どうしてだ。

―― 何故、世界は彼を穏やかに想い続けることすら、許してくれないのだろう。

…酷い、耳鳴りがしていた。