4
「もぉお前いらない」
彼からのたった一言。
その言葉を聞いた時、頭と胴が引きちぎられたかのような錯覚に陥った。
自分はもう死ぬんだと思った。
そして、同時に苛烈なまでの怒りがこの人の身を焦がした。
私と彼はずっと一生一緒なの。
そうあるべきなのに。
私は彼のものだから。
彼の好きなように私を使ってくれたら、それだけで生きていけた。
息ができたのに。
でももう肺呼吸も、エラ呼吸ですら出来ない。
苦しくて、苦しくて、何も食べれなくて、何も飲めなくて、更に苦しくなる。
私は彼のものなのに。
彼から必要とされなくなったら、私は何なの?
そんな空っぽな頭に一つだけ鮮明に残っているものがあった。
全ての元凶である人間の雌のこと。
やっぱり最初から掃除しておくべきだったのだろう。
人間の雌が現れたその時点で。
ちゃんと掃除しておかなかった私が悪い。
でも、私の"全部"を奪ったあの雌が1番悪い。
悪いものは掃除をしないといけない。
今からアレを掃除すれば、また彼は私のことを必要としてくれるかもしれない。
***
「嫌ぁ!!何するのっ!!??
ぅ痛いっっ!!っひ!!ぁ、や、やめてぇええええ!!!」
私は目の前の人間の雌を掃除する。
ただ掃除するだけじゃつまんないから、ちょっと遊んでみることにした。
そうね、この柔い肌に海で息できるようにエラをつけてあげる。
肋骨に沿うようにつけられた真っ赤な線が仄暗い光を帯びヌラヌラと光った。
徐々に線から滴る赤黒い血。
そっちの方が彩りがあって良いんじゃない?と思った。
ああ、私、凄く優しいわ。
海の魔女のように、ただの人間に慈悲の心でエラを与えてあげてるの。
「ァァ、い、痛い、いたぁ、いたぃよぉおお……ぅ」
折角与えてやったのに、嬉しそうな素振りを微塵も見せない人間を見て、失礼な雌ね、と口を尖らせた。
そうだわ、与えたからにはちゃんと対価を貰わなきゃ。
貰うのは勿論声だ。
これはお決まりだ。
私は人間の喉に二股に分かれた尾鰭の一方を乗せて、体重をかけた。
少しずつ体重をかけていくと、汚い声で呻き鳴く人間の喉の感触が靴越しに分かるようになってきた。
もう終わりね、とイソギンチャクに全身を揉まれたようなビリリとした高揚感に襲われた、その時だった。
一瞬の出来事だった。
視界がぶれ、何が起こったのか理解する前に私の身体は硬いコンクリートの壁に打ち付けられていた。
強かに頭と全身を打ち付け、朦朧とした頭で私は衝撃を受けた方へ何とか視線を移す。
そこには愛おしくて愛おしくて堪らない彼の姿があった。
彼は海の底の凍えるような冷たさを湛えた瞳で、私を見ていた。
そんなゾッとするぐらい美しくて格好いい彼は、一瞬で私から視線を逸らし慌てた様子で人間の雌に駆け寄った。
意識を失っている人間の雌に必死に声をかけた後、この部屋の扉の前にいた数人の雄達に何かを伝えていた。
その中にはこの学校の先生もいた。
動かない頭で今の状況を何とか把握する。
もう私は彼の傍にはいられないかもしれない。
よくて退学、悪くてポリスと共にランデヴーだ。
滲む視界の中、そう思考を巡らしていると雄達や先生達がいなくなっていることに気付いた。
そして愛しの彼だけが残っていた。
無言で彼を見つめる。
いや、無言にならざる得なかったのだ。
今まで見た事もないような、彼の無感情な瞳のせいだ。
喉が干上がった時のようにへばりついて音を成さない。
永遠にも思われる時が流れたあと、彼はやっと動きを見せた。
彼は蕩けるような甘ったるい笑顔を私に向けたのだ。
それを見た時、私はこの上ない喜びを感じた。
例えるなら、そう。
死の間際まで食べずにいた極限の状況で、やっとエサにありつけた時のような、とにかく形振り構っていられないほどに嬉しかったのだ。
「シュリ」
私の名前を呼ぶ彼に身体の芯から興奮した。
声にならない声が私の喉を伝う。
「あは、シュリ、シュリィ。
ほんとぉにお前はかぁいいねぇ〜」
彼は大きな身体を折り曲げ、私と視線を合わせてくれた。
身体に見合った大きな手が私の喉をくすぐる。
「ねーえ?シュリ。
お前、小エビちゃんに何しようとしてたの?」
彼が私に問うていた。
頭では理解していたが口が追いつかなくもごもごしていると、鋭い痛みが頬に走った。
頬叩かれたのだ。
「オレ聞いてんだけど。ねえ、聞こえないのぉ?」
聞こえないならこの耳いらないよねえ?と彼は私の耳となる部位を容赦なく引っ張り上げる。
とても痛くて、小さくプチプチといった音も聞こえたが、それでも彼に触れられるだけで幸せだった。
しかし、彼に聞かれたことにはちゃんと応えなきゃいけない。
ひくつく喉を何とか抑え、小さく声を絞り出す。
「ぅ、そ、そうじ、掃除、しようと、したぁ……」
「そうじぃ?」
「う、ん、掃除」
彼は至極幸せそうに目を細め、口を釣りあげた。
その顔が私はとても好きだった。
私も釣られてへらりとすると、彼は私の口に噛み付いてきた。
削げ落とす勢いで私の口を塞ぐ彼に必死に私も応える。
痛くて堪らないけど、気持ち良くて堪らない。
彼の唾液に塗れて溺れ死ぬ手前で離された口が外気に晒されひりつく。
彼は満足そうに自身の口に付いた私の血を分厚い舌で舐めとった。
「シュリィ、そんなにオレのこと好き〜?」
彼は、間髪入れずに落ちそうなぐらいの勢いで首を縦に振る私の頭を鷲掴み、鼻と鼻がくっ付く程の至近距離で言った。
「そぉだよね〜。
だって、オレといるためなら、ヒトを"ころせ"ちゃうんだもんねぇ?
でもねぇ、他のヤツが死んだって意味ねぇの」
体温は低いはずなのに、彼の吐く息がとてもとても熱く感じる。
「オレはさぁ、シュリ以外なぁんにも要らない。
今シュリ以外全部なくなったっていい」
するりと首に添えられた手が喉を柔く締め上げる。
「ここまで堕ちてきてよ」
「自由に動くかぁいいあんよも捨てて、ピチピチ跳ねる尻尾も捨てて、全部全部捨てて、オレだけしか見ないで、触れないで」
「それで、全部全部ぜぇんぶ、シュリの全てをオレに、ちょぉだい」
彼の熱に溶かされグツグツと煮え滾る金の眼が私を焦がす。
そんなの、答えは決まっている。
そして、彼は私にとどめを指した。
「だからねえ、シュリ。
オレのために、死んで?」
