
美しい悪魔のコンフィ
〜「24 Caprices Op.1 no.9」を添えて〜
※絵描きイヴァン×旦那様ギルベルト
※メイド視点
◇ 美しい悪魔のコンフィ ◇
メイドから見た旦那様は、とても不思議な方だった。
煙草をくわえて新聞を読み、難しい顔をした後は、決まって誰かへ電話をかける。難しい話をされる姿は、いつも憂鬱そうに見えた。
庭で愛犬と戯れる姿は、別人のよう。暑がりで、すぐに上着を脱がれてしまう。きっとこのお姿が、本来の旦那様に近いのだと、私≠ヘそう思っている。
私≠ヘこのお屋敷では、一番若いメイドだ。仕事は楽ではないが、旦那様のためならば苦にならない。自分に関する悩みは無い。ただ、たまに訪れる「絵描きの男」の存在が、もっぱら心配事の種だ。
中流階級の子息らしい、程よく綺麗な身なり、裾には絵具のシミ――これは少しわざとらしい――自身で童顔だと笑っている、年齢不詳の顔立ち。
旦那様とは親しげに名前で呼び合っている。学費を援助してもらう代わりに、旦那様の肖像画を描いているというが、いつまで経っても絵は出来あがらない。
顔立ちに異国を感じるけれど、言葉に訛りらしいものは聞こえてこない。私≠スち使用人にも優しく、物腰は柔らかい。それでも時折、瞳が冷たく感じられる。
誰に相談をしても、当然ながら、詮索はするなと言われるだけだ。いけないこととは思いつつ、私≠ヘつい部屋を覗いた。
真っ白いキャンバスの前で、ふたりは抱擁を交わしていた。ふたり――あの画家と、旦那様だ。
目を閉じた旦那様の横顔は、冒しがたいほど、完璧だった。生き物の気配のない部屋のなか、赤い絨毯が静寂をはらんで横たわっている。
ふと、画家だけが気づき、微笑む。「しずかに」と、指で秘密の
『君は、とっても良い子だね』
その徽をつくる指は、雪のように、白かった。
その夜、私≠ヘ思いきって旦那様に声をかけた。
「あの方は、きっと善良な人です、分かります。それでも、いつか、連れてくる気がするんです……その……何か、良くないものを」
叱られるのを覚悟で、泣きそうになりながら訴える私≠ノ、旦那様はこう言う。
「……よく見抜いた、お前は聡い。そう、このままだと、あいつは破滅を連れてくる。けど、招いたのは俺だ」
「なぜ」
「エリーゼ、心配するな。いつまでも続くことじゃない……そのうち全てが元に戻る。俺を信じられないのか?」
優しい表情を浮かべた、その瞬間に、旦那様は何か決心をされたようだった。
そこにいるのは、いつもの明るい旦那様だ。よく見知ったお顔が、赤い花びらのように目を細め、私≠見ている。何も言えず、その場を立ち去るしかなかった。
旦那様とあの方には、深い事情があるのだろうか。例え破滅が待っていたとしても、私≠ノは此処しかない。孤児の私≠ここまで育ててくださった、旦那様とお屋敷の方々を、私≠ヘこの上なく愛しているのだから、どんな結末も受け入れよう。
――だけど、どうしてこんなに、胸がざわつくのだろう?
「私、どうしても気になるんです。……ボタンをつけ間違えてしまったような、食器に磨き残しがあるような……とても、気にかかるんです。……だって、どうして? なぜ、あの絵描きは歳をとらないのですか?」
年上のメイド長が、気の毒そうな目で私≠見た。
「あなた、自分が何を言ってるか、分かっているの?」
「もう何年も、同じ顔、同じ背丈で……私、私は……」
「エリーゼ、気を確かにもちなさい」
深い皺のきざまれた手が、肩に強く触れる。
「旦那様だって、そうでしょう?」
「えっ……?」
おそろいのエプロンをつけた彼女は、白髪混じりの髪をきつく結っている。屋敷内の使用人たちは、皆、年老いているのだ、若い娘などひとりもいない――私≠フ他には。
呆然とする私≠フ背後で、振り子時計が鳴った。
まだ肖像画の無い邸内には、ただ一つだけ白黒写真が飾られている。階段の上、花の飾られた踊り場の隅に、ひっそりと。もう日に焼けて、走り書きの日付は読めなくなっている。胸に勲章をつけた、旦那様の姿が、そこにあった。
私≠ヘ、いつから此処にいるのだろう。
お務めをはじめてから、何年になるだろう。私≠ヘ今年で何歳になったのか。両親を亡くしたあの戦火は、西暦何年のことだったか。
身体中の血の気が引いていく。
写真のなかの青年は――旦那様だと、もはや断言できない――美しく毅然とした姿で、正面を見据えている。褪せた写真のなかでも、輝くようなその髪が、今と同じなのか、それとも、雪のように白いのか、もう分からない。
足元が揺らぐような気がして、意識を失った。
翌朝、何事も無かったように目が覚めて、私≠フいつもの一日がはじまる。メイド長も変わりない、優しく仕事を教えてくれる、まるで母のように。
私≠ヘ気が触れそうだった。
砂時計の、百年分の砂が、頭のなかへ一気に降り積もってくるような、漠然とした不安に息が出来ない。急に年老いたのではないかと、何度も鏡を確かめたけれど、何度見ても少女の私≠ェそこに映る。
存在を疑いたくない。自分の、ではない、大好きな人達のことを、好きなままでいたいという願いだ。そう思った時、私≠フ目から涙がこぼれた。窓を拭きながらこぼした涙は、カーテンに隠れてそっと拭った。
長い一日の仕事を終え、私≠ェ沈んだ気持ちで戻ると、自室には蝋燭が灯っていた。
「遅くまで、ご苦労だな」
使用人の屋根裏部屋には、そぐわない姿だ。私≠フ椅子は小さく、旦那様が長い脚を控えめに組んでいる様子に、私≠ヘまた目頭が熱くなるのをこらえる。
「お前がここに来た時、あんまり幼かったから……説明を忘れたらしいな、うっかりした奴らだ」
言葉とは裏腹に、愛しそうな声で言う。
「……好きに選んでいいぜ、まだどこにだって行ける」
いつもとは違う口調を、なぜだかとても旦那様らしいと感じる。
「私だけ、ですか?」
逃げろ、と言われているような気分だった。しかし、細められた目に、差し迫った影はない。
「……綺麗になったな、母親に似てきた」
頬に手を添えられたとき、少しだけ、自分を取り戻したような心地がした。言葉にならない安心感で、今度は抑えようもない涙が出てくる。
「お前の時間はまだ動いてる。此処で止まらない時計を持っているのは、お前だけだ。はは、なんだその泣きっ面、心配すんな。
俺には負債のようなものがあってな、契約書さえ上手いこと破ければ、いつかそっちに戻れる。完全に支配されたわけじゃねぇ」
――契約、支配、なんのことだろう。
「あの方は、悪魔なのですか」
魂を、奪われているのだろうか。
「ん? あぁ、イヴァンのことか」
「……それとも、旦那様が……?」
旦那様は目を大きく見開き、数秒の後、ぱっと弾けるような笑顔をつくられた。
「ッ、はは! そんな面白いこと考えてたのか、さすがだな……なるほど、俺様が……」
はっと我にかえった私≠ヘ、なんて馬鹿なことを言ったものだと、何度も頭を下げた。顔が火照っていく感覚のなかに、私≠ヘ急に、生の実感を得る。
「ふ、気にすんな、久しぶりに笑えた。今日はゆっくり寝ろ、明日からはこんなに遅くまで働かなくていい」
俺から皆に言っておく。そう残して、足音は階下へ遠ざかっていく。
その夜の私≠ヘ、夢も見ずに眠った。
馬車の音がする、まだ遠い。旦那様を探そうとして、バルコニーに姿を見つけ、知らせる必要は無いと理解した。すでにお待ちかねだ。
綺麗にしておかないと、大切なお客がいらっしゃるのだから。まだ自分の道を決めかねながら、私≠ヘ落ち葉を掃くため、顔を伏せた。
時の止まったような美しい屋敷に、年老いた使用人たちに混じって、若い娘がひとりだけ働いていた。
娘はまだ、恋を知らない。
Fin.
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《Niccolo Paganini - Caprice No.24》David Garrett
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初出 2016.??? Twitterにて