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いつからこんな妙な癖がついたのかといえば、今もはっきりと思い出す光景がある。
未明に、ふっと意識がもどった俺は、シーツのなか、隣に寝ているはずのイヴァンを探した。腕がぶつかり、くぐもった声が聴こえる。
うなされているのか、腹でも痛いのか、イヴァンが判然としない声を漏らしていた。そのせいで目覚めたのだろう、かすかな声にも目を覚ましてしまうのは、俺の特技といってもいい。弟がまだ幼かった頃、身についた性質だ。
さえざえとした夜の光が、白いシーツを浮かびあがらせていた。他のものは闇に沈んでいて、夢のように曖昧な部屋のなか、ベッドのうえだけが俺の意識に上る。
「……う、」
「どうした ……起きてるのか?」
「ん、ねて、た……」
それはそうだろう、俺だって今の今まで寝ていた。何を当たり前のことを言っているのだ。
寝ぼけているのは分かるが、起こされた身だったので、そんなことを思ってしまう。
「変な、ユメ、みて……」
「おぅ」
「きみ、やくそく、やぶった……」
「そりゃ悪かったな」
目を閉じたまま、つめたそうな唇がぱくぱく動いて、うわ言をもらした。白くて粒のそろった歯が、ちいさく開いた口からのぞく。
俺のいいかげんな謝罪に、え、と小首を傾げたイヴァンは、
「ギルベルト、そこにいるの……?」
と、訊いてくる。
こいつ、寝てやがる。さすがは俺だ、ほとんど眠ったままのイヴァンと、会話ができている。間の抜けた不思議な状況に、思わず吹き出しそうになった。
困ったやつだ、なんだか可愛く見える。くしゃくしゃと頭を撫ぜれば、んん、と嫌そうな声をだした。ますますツボに入り、俺は相好を崩す。
「ここにいるだろ、ずっと」
だらしなく緩む口元を自覚しながら、普段よりも高い声音で、語りかけた。
「やくそく……」
「おう、約束でもなんでもしてやるから、寝ろ」
さらりとした寝床のなかで、小指を絡める。やわく、きゅっと、力をこめる。
蒼白い室内が、次第に輪郭をあらわしてきた。暗闇に目が慣れたのだろう。ひんやりした壁や、置時計、寝る前に外した指輪、みんな静かにそこにある。すうっと青さが冴えていく。
枕にしずみこんだイヴァンの寝顔が、やすらかに眉尻を下げ、ようやく目をあけた。ゆっくり、ゆっくり目蓋がひらいて、やがて真っ直ぐに俺を見た。
「あ……きみ、そこにいたの……」
「……」
なぜ声を失ったのか。俺が驚いた理由は、目の前にある。
とろとろ、光りだすほどに、澄んだ瞳。イヴァンの瞳に映りこんだ自分の姿が、見たことのない顔をしていた。
触れればもろく崩れそうな、寄る辺ない、それでいて満ちたりた顔が、そこにある。
お前の眼に、俺はそんなふうに映っているのか。
大げさに言えば、俺は、自分自身を揺るがされるような驚きを感じた。音もたてず、静かに動揺していた。
「ありがとう……ねる、ね……」
「……イヴァン?」
そっと呼びかけても、もう返事はない。イヴァンは絡めたままの小指にキスして、むにゃむにゃと寝入ってしまう。とろんとした眼を閉じて、夢のなかへ戻っていった。
すうすう、すぐに寝息が聞こえてくる。俺も、胸に引っかかるものを残したまま、眼を閉じた。
翌朝はよく晴れていた。イヴァンはうなされていた事など、ちっとも覚えてはいないらしい。靴紐が結べないと言って、出がけに少し不機嫌になった。
「なんだか小指が痛いんだけど……君、何かした?」
俺がアクビをしながら、素知らぬ振りをすると、
「指を寝違えることなんて、あるのかなぁ」
と、ちいさく言って、むくれている。
だんだんその様子が面白くなってきて、笑いたくなったが我慢する。仕方ないな、という体裁をつくろって、イヴァンの座る椅子に近づき、その足元にしゃがみこむ。
「うれしいなぁ、やってくれるの」
「言っとくけど、高くつくぞ」
「へぇ、お得意様価格でお願いできない?」
「そんなサービスはねぇよ」
くすくすと笑い合いながら、俺は靴紐を結んでやる。編み上げる型のショートブーツなんて履いている、不器用なイヴァンじゃなくても手間どりそうだ。
「なんでこんな靴買ったんだよ、珍しいな」
「君の真似しようかと思って。でももうやめる、毎朝いらいらしちゃって」
「ふ、愉快な話だな……こら、イタズラすんなよ」
首筋から、すっと入ってきた指先を、言葉だけでたしなめる。意に介さず襟足の髪をくすぐってくるのを、そのままに許してやった。それですっかり機嫌が直るんだから、ますます笑えた。
「ねぇ、明日までこっちにいるんでしょ、今夜は何時に帰ってきてほしい?」
「帰ってくんな、俺は悠々とお前のベッドで寝とく」
「わぁ、ひどい」
憎たらしいなぁ、と、わざとらしい、穏やかな声で言われた。ひろい手のひらで頭をぐしゃぐしゃにされる。まだ髪をセットする前だったから、これも許してやろうと思った。
見上げれば、また、とろんと光っている瞳とぶつかる。さざ波ひとつない水面のように、景色を映しだす鏡になる。
俺がじっと見つめたからといって、ひるむような奴ではないから、とことん、気の済むまで見つめてみた。
「なに?」
「……ちょっと黙ってろ」
やはり、見たことのない俺が映っていた。なんと言えばいいのか、優越感と、恥とが、入り混じったような顔をしている。とても奇妙で、知らないやつを前にしているようだった。
イヴァンは本当に黙っていた。言われたとおり従順にしている、というよりも、ただ俺と見つめあっていることが楽しいらしい。ゆったりとして、俺が何を考えているかなんて、きっと気にも留めていないだろう。
横柄な口をきいても何をしても、イヴァンがそれを怒らないのは、ひとえに俺に惚れているからだと思う。けれど、俺が無理矢理に何かを強制したことはない、おそらくそんなことは出来ない。
俺達はふたりともワガママだし、気分屋だ。そう、たまたま二人の気分が重なることが多いから、一緒にいられるだけなのだ、たぶん。それがなかったら、壊滅的に相性は悪いと思う。
「いつまで、黙っていたらいいの」
「ずっと、って言ったらどうする」
「なにか喋っててよ……君の声が聴ければ、それでいいから」
ふ、と笑う。そんな表情に愛着を感じていることを、否定できない。
自分から始めたにらめっこではあるが、イヴァンがあまりにも真っ直ぐ俺を見るから、いたたまれなかった。吐いてもいない嘘を、見破られているような気になる。
そして、そんな不安だけでなく、高揚していく気持ちもあった。見つめる瞳の温度に浮かれて、心音が上擦りそうになる。まったく正体がつかめない。
「はぁ……やめた、考えても分かんねぇ」
ぷいっと目を反らし、ほかほかした膝の上に突っ伏した。何分ぐらい見つめていたのか分からないが、もう見飽きた、あと数日はこの顔を見なくていい気さえする。寝心地のいい膝に、頬を押しつけ、ため息をつく。
「……おい、とっくに靴紐終わったぞ」
「あ、もう喋っていいの?」
耳に触れ、優しくつまみあげてきた。口調はのんびりしていても、タイムリミットは近いだろう、何時に出かけるつもりかは知らないが。俺の視界に、時計はない。
「終わったんなら、出かけたいんだけどな」
「……高くつく、って言っただろ」
「はいはい。あと三分だけなら、好きにしていいよ」
上からな言い方が気に食わなかったが、膝によじのぼった。
声が聴きたいなんて、さっき可愛いことを言われたから。イヴァンの白い耳に、直接ふきこんでやることにする。太い首にしがみつき、意地の悪い声を落とす。
「イヴァン、」
「……ん?」
「帰りにビールな」
「本当に高くつくなぁ、君の親切は」
耳の先に噛みついて、早く帰ってこい、と囁いてやった。
あの時、あいつの緩みきった体温にひたりながらも、俺はかすかに焦っていた。
我ながら適応力は高いほうだ。だからこそ、自身の変化に気づいていないことがある。知らない自分が居るなんて、気味が悪い。
なにより俺自身が把握していないことを、イヴァンに気どられているかもしれない、なんて、考えただけで癪に障る。
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