※2015年8月発行 シリーズ作品集『HELLO?』 へ収録 →完売から一年後にweb再録
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この機会を逃したら
もう同じ夜は訪れないから
立ち止まることのできない切なさを
自分の時計にするしかない
◇ 「Hello?」のような鐘の音が ◇
『やぁ、窓の外をごらん、空がきれいだ』
『……あんた、誰だ』
『今日から、君の父親になる者だ。よろしく頼むよ、フリッツでいい』
俺は、初めて会った日のことを、思い出していた。
曖昧を許さない八月の緑が、弔いの鐘と、克明に重なる。それほど知らしめなくてもいい、と思いながら。俺はどこか呆けたまま、聖堂の前に立ちつくし、その音に耳を傾けていた。蝉の声まで響きだし、じくじくと胸を突き刺してくる。
尖塔が空をあおる。緑青をまとったドーム屋根から、鐘の音は地面を這うように鳴りわたった。上へ下へ、響きあう調べが足もとを包み込む、まとわりつく暑さとともに。
目を覚ませ、現実を受け入れろ、と、夏の葬礼が俺に迫ってきている。そのさなかで、不意に、樹木の影が強まった。
『……ほら、はじまる』
耳元で、親父の声を聴いた気がして、その時を待つ。予感通りだ、ひぐらしが鳴きはじめ、かなかなと夕刻を震わせた。虫の所在が、近くか、遠くか分からない。追いすがるように、つかず離れず、耳に寄せてくる。
初めて会った日のこと、俺と、親父が。
* * *
「……俺の名前は、まだない」
「ん? ギルベルト、と聞いているけどね」
「あんたの家に行くなら、俺も同じ名前になるんじゃねえのか」
「あぁ、バイルシュミットというんだ。気に入ってもらえるといいが」
「……悪くない」
風変わりな挨拶をすませて、西陽の射すなかを歩いた、二人の暮らす家へ。最初から「おかえり」なんて言うから、変な気がした。そんなどうでもいいことを、よく覚えている、茜色の思い出だ。
俺はまだ十二歳、少しひねた子どもだった。
「アンタ、ひとり、なのか」
部屋を見渡して、俺はそう言った。一脚だけの椅子が、窓辺にぽつんと置かれていたのが、印象的で。
「そうだね、ひとりで生きてきた」
「ふぅん、俺もだ」
「……椅子は、買い足さないといけないな、嬉しいね。きっと、上手くやっていけるよ」
一つきりの椅子に俺を座らせて、そっとカーテンを開ける。夕陽はまだぽかぽかとして、フローリングをあたためていった。綺麗な床だ、掃除好きな男なのだろうと、うつむいていたところで声が降ってくる。
「窓の外を、ごらん」
ちいさな家の、ちいさな窓から、夕陽を眺めた。地平線は昼間にためこんだ熱をぼやかせ、はるか彼方から、遠い夜が渡ってくる。
「もうじきだ」
「なにが、」
「ひぐらしが鳴き出すよ、知ってるかい、時刻が決まっているんだ。彼らにとっては、明るすぎても、暗すぎても駄目らしい。……ほら、はじまる」
かなかなと響きだす。言ったとおりに、虫の合唱がはじまった。
「……本当だ、すごいな!」
わっと驚き、表情を変えた俺に、おだやかに微笑む。
「私は、この声が大好きでね。なんだか一生懸命だろう、耳にするだけで嬉しくなるんだ」
そう言って、音に聞き入る表情は朗らかで。今にして思えば、あれはとても親父らしい言葉だった。
あの人は、俺に、何かをしろと望んだことはなかった。だから俺は、あの人のためには何もしなかった。ただ一生懸命に毎日を過ごした、そうすれば、喜んでもらえると思ったのかもしれない。
「変わった色の容姿だね」
俺の髪と、目のことを言っている。そう理解した途端に、体が硬まる。大人はすぐにこれだと呆れながら、笑い損ねて黙っていた。どうせこいつも、おざなりに褒めるか、自信を持てと説教するか、どちらかだろうと決めつけて。
「自分の色が嫌いなのかな?」
「いつも、じろじろ見られて、うざったいんだ」
「私は好きだな。どこにいても見つけられそうだ」
そんな風に言われたのは初めてで、思わず、その背の高さを見上げる。
「……あんた、身長いくつ?」
「フリッツと、呼んでくれないのかな」
「……俺のこと、見つけてくれんの」
「そう努力するよ。君がどこにいても見つけられるように、この目を鍛えよう」
「なんで……俺のこと、」
それ以上は言葉にしなかった。できなかった、という方が正しいかもしれない。
フリッツ親父は、実の父親が心から信頼していた友人だと、そう聞いていた。顔も知らない父のことだ、実感などわくはずもない。どうでもいいと思っていたのに、いざ会ってみると、なぜだか分からないまま、この人を信用したいと思わせられてしまった。フリッツ親父はそういう人間だった、こういう人間もいるのだと気づかせてくれた。
「俺は、あんたに何をしてやればいい?」
「私は、息子がほしかったんだよ、おかえりと言ってやれる、息子がね。だから私の望みは、君がいてくれるだけで叶うわけだ」
おもむろに取り出したハンカチで、俺の額に浮かんだ汗をぬぐう。ごく自然に、まるで、何年も前から、こうして夏を過ごしてきたかのように。前髪のはえぎわに、大きな手が触れた。しっとりと汗を吸いとってくれるハンカチの感触とともに、なんだか懐かしいような気がした。とても不思議だった、だから、笑った。
「……仕方ねぇな、それならずっと、ここにいてやる」
「はは、ありがとう。それにしても、暑いねぇ、もうお風呂をいれようか、ここに座っててくれ」
窓辺に一つきり置かれた椅子、ひぐらしは夕暮れの合唱。親父が廊下を歩いていく、浴槽にお湯を溜めている、今、電気を点けた、からからと窓が開く。生活の音がそこらじゅうにある。窓の向こう、空には一番星が出ていた。
* * *
どこにいても、見つけられそうだと。俺のことを見つけてくれると、そう言ったじゃないか。
弔いの鐘が鳴っている、尖塔の先には、重たい雲がたちこめてきた、夕立がきそうだ。
親父、あんたは今どこにいるんだ、どこへ行ってしまったんだ。どこだっていい、こんな空じゃ、きっと俺のことなんて、見つけられやしないだろう。
「……親父」
何の役にもたたない空を、ひとりで見上げた。涙のかわりに、したたる汗が、頬をすべり落ちていった。
* * *