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するどく空気の漏れ出るような音がして、車体が少し浮いた気がする。出発を知らせるメロディが響き、駅舎にたたずむ人々が、車窓からゆっくりとフェードアウトした。ごとごと音をたてて中央駅を滑り出した列車は、軽快にスピードを上げていき、心地よい振動が俺達をつつむ。
窓の木枠に手を置くと、日差しに熱せられ、ぽかぽかと温かい。へこみや傷の目立つ木枠から、夏の匂いがただよっていて、旅の気分を高めていた。
観光を主要産業として位置づけているこの国は、歴史的建造物との調和だかなんだか知らないが、なんでも古いものが良いという価値観だ。相当の年月を経ているであろうこの車体だけでなく、旅のシステム自体が古びている。等級性の切符を残しているのは、その一つだった。
旅客車の一等車両には個室が連なり、そのうちの一室に、俺はイヴァンと二人で腰かけていた。四人が向かい合わせに座れる広さだ、俺はのびのびと片側の椅子でくつろぎ、前に座るイヴァンを観察している。
「……なんて本なんだ」
「これ? ハイネの詩集、海へのあいさつ」
「知らねぇな」
お利口に上までボタンをとめた半袖シャツ、縹色のストールは麻の生地で、涼しげだ。革の文庫カバーと妙に合っている。
イヴァンの腕は、まだ日に焼けていなかった、夏期休暇は始まったばかりだからだ。
本から目を上げた顔と、目が合う。なぁに、と言いたげに、柔らかく首を傾げてくる。
「本、好きだな」
「そんなことないよ」
「嘘つけ、あんなにたくさん持ってるだろ」
「本棚が大きいだけだよ、ほとんど両親のものだから」
べつに、好きだと言っておけばいいのに。ふわふわした顔をして、変なところで頑固なやつだ。いつでも何かしらの本を広げているんだから、どう考えたって好きなはず。自分のことを分かっていないのか。
ふぅ、と一息ついて、イヴァンは本を閉じた。トランクの上に置いてしまうと、空になった手を膝で握った。そわそわ、何かを決めかねているようで、んむっと唇を結び、落ち着かない。
――あぁ、もう、見てるだけで照れくさい。
「……ギルくん、そっちに行ってもいい?」
がたん、と派手に列車が揺れた。恥ずかしそうな表情のなか、瞳がぴかぴかしている。直視するのが難しい。
俺は言葉に詰まって下を向く。何秒かしてから、ぽいぽいサンダルを脱いで、裸足になってみた。せっかくの個室だから、少しくらい行儀わるくしてもいいだろう。シートを横に詰めて、足を乗せる。
「……ん、」
空いた隣に、目でうながした。座席に三角座りした俺の隣に、いそいそとイヴァンがやってくる。
左手をたらしておいてやったら、何も言わずに繋いでくる。むっとした俺と、嬉しそうなイヴァン、ふたりで手を繋いで。レールの振動に、無言で身をまかせた。
冷えた手を握られて、想いを告げられたのは、去年の冬のことだ。感情がうまく言葉にできず、自分の胸をかきむしった、俺の不器用な手。それを無言で受けとめ、両手につつみこんでくれた。
『……君が好きだ』
あまりにも真っ直ぐすぎる告白を思い出せば、今でも顔が熱くなる。心臓が爆発しそうだ。
なんだって、こんなに恥ずかしいやつなのだろう。いちいち「してもいい?」と聞かれるのに耐えられなくて、先日ついに怒鳴りちらした。いちいち訊くなと怒ったら、ひとつだけ学習してくれたようだ。
「手を繋ぐときは、訊かなくてもいいんだよね?」
隣から、ひそひそ声で確認してくる。その通りだが、確認しなければ完璧なのに――ばか。
「勝手にしろって言っただろ」
「うん。寄りかかってもいい?」
「だから、いちいち訊くな……勝手にしろよ」
身長のわりに可愛らしい頭が、こて、と肩に乗せられた。その心地よい重さに、俺はくっと喉を鳴らす。むずがゆい。
冷房の効いた車内なのに、体の片側だけが暑い。おまけに、繋いだ手をもじもじと動かして、無意味に手の甲を撫でてくるから、たまったもんじゃない。全てが子どもじみた行動なのに、なぜだか俺をどきどきさせる。
「ギルくん、」
「なんだよ、寝るのか?」
「よく……分かるね……ちょっと、眠くなっちゃった。起こしてね」
「あぁ、いいぜ」
すうすうと寝息をたてはじめるまで待ち、自分もやっと力を抜いた。調子が狂う、というか、調子の狂った状態が、当たり前のように続いていく、イヴァンの隣にいるといつもこうだ。
それでも、半年以上の月日が経って、これにだけは慣れた。そう思いながら、繋いだ手を見る。まだ、手を繋ぐくらいしかしていないから。
「……まだ、って、なにを待ってるんだよ、俺は!」
うう、と独りで身もだえた、イヴァンを起こさないように気をつけながら。
手を繋いだだけ、そう、半年以上が経っているのに。それが平均並かどうかも分からない。天才を自称する俺様でも、残念ながら恋愛偏差値はゼロなのだ。今まで興味もなく過ごしてきたから、仕方がないだろう。
「あー……飲みもの、買い忘れた」
左肩から汗ばんでいく、一等車で熱中症にかかったら笑えない。ラウンジに行けばタダで飲み食いできるらしいが、どうする。しかし寝入ったばかりの呼吸を数えて、起こすのは諦めた。
だめだ、こいつの寝顔を見てると、無駄に体温が上がる。窓の外を見ても、太陽がやたら眩しい。夏期休暇に旅行だなんて、期待するなというほうが無理だ。どうしたって浮わついてしまうじゃないか。
「涼しいことを考えりゃいい、そうだ、頭を冷やせ」
涼しいこと、涼しいこと。目を閉じて、雪や氷を想像してみた。するとまた、あの冬の光景が浮かんでくる。
しんと静まりかえった部屋のなかで、あたたかい指を絡めて。濡れていた俺の頬に、近づいてきたイヴァンの吐息が、ふわりと重なった。あの時の感触を、鮮明に思い出す。
そうだ、手を繋いだだけじゃなかった。
「いっかい、だけ……あ〜、俺のばかやろう」
一度だけのキスを思い返してしまって、ますます体温が上がる。うう、と頭を抱えたくなっていると、列車が駅に到着した。
なんだ、誰かが客車の廊下を急いで渡ってくる。もちろん、一等は全て指定席のはずだ。それなのに、いったい誰が――。
「……やべぇ!」
「痛っ! え、なに?」
イヴァンを叩き起こし、俺は慌てて向かいの席にうつる。トランクに派手に膝をぶつけ、鈍痛がしたが、構っていられない。わたわたとサンダルをひろって履いているところで、勢いよく個室のドアが開いた。
「イヴァンちゃん! 二ヶ月ぶり!」
「あ、姉さん」
会うなり抱きつき、迫力のある胸元へ、イヴァンを閉じこめている。明るい色をした女性物のスーツケースが転がり、俺はとっさに受け止めてしまった。腕にまで鈍い痛みが走り、歯を食いしばる。まったく、なんてざまだ。
「あ、ごめんなさいギルちゃん、ありがとう」
「……どうも、久しぶり」
自分の連想に振り回されているうち、途中駅で合流することを忘れてしまっていた。一等の切符を買った本人、ブラギンスキ家の長女が、いかにも女社長という出で立ちでのご登場だ。ほどよく体の線を見せる、上品な仕立てのスーツを着て。けれど顔には弟とおなじ、あどけない印象の笑みを浮かべている。
「姉さん、仕事からそのまま来たの?」
「そうなの、せっかくのバカンスなのにね。向こうで着替えるのを楽しみにして来たわ。新調したサマードレスを、トランクに入れてあるの、あとで見てね! ナターリヤちゃんとお揃いにしたのに、あの子ったら課題で来れないなんて」
「電話でものすごく悔しがってたぜ、鬼みたいな声で」
「ほんと? かわいそう、きっと落ち込んでるわよ」
「……いや、俺のことを呪うとか言って、めちゃくちゃ元気そうだったけどな」
「ね、姉さん、とりあえず座ったらどうかな? 疲れたでしょう」
「あら、そうね」
会うなり絶好調の姉は、抱いた弟を撫でまわすのを止め、隣に腰掛けた。やっと落ち着くかと思えば、ハンドバックを広げ、おもむろに菓子や飲み物を取り出す。あぁやっぱり、自分で口にするのでなく、弟へさかんに進めている。相変わらずの溺愛っぷりに、感心するしかない。
イヴァンはそんな姉に困惑した表情を浮かべつつも、やはり久しぶりに会えて嬉しいらしい。今日のストールも、彼女を喜ばせるためにわざわざ身につけてきたのだろう、それはたしか一番最近の贈り物だったはずだ。旅行を楽しむために、姉弟とも準備万端で、まったくほほえましい。
「イヴァンちゃん、また大きくなったわね〜」
「そんな、大げさな」
「男の子の成長は早いんだから! 二ヶ月も会わなかったら別人よ、あなたこの一年でどれだけ身長が伸びたと思ってるの? ふふ、よく顔を見せて。あらあら、こんなに男前になって」
スキンシップ過多な人である。柔らかな線を描く、イヴァンの輪郭に触れて、親愛のキスを頬に贈っている。かと思えば、髪をなびかせ、こちらに振り向いた。
「ギルちゃんも、久しぶりね。元気にしてた?」
「……当然!」
急に話を振られ、俺は向かい側の姉弟へ、にやりと唇をつり上げた。
「なぁ、俺は? 俺もどんどん男前になるだろ?」
「えぇ、イヴァンちゃんの次にかっこいいわ」
「ね、姉さん」
「ふーーん、全然悔しくなんかねぇし」
ふん、とそっぽを向く、もちろんわざとである。あはは、と鈴の鳴るような笑い声がして、車内が一気に華やいだ。
ブラギンスキはこの国の旧家で、成り立ちまではよく把握していないが、先々代が事業家として成功して以来、複数の会社や農場などを保有する資産家だ。先代、つまりイヴァンの父親が亡くなり、いくつかの事業からは手を引いたらしい。長女は服飾ブランドの社長に就いて、忙しくもつつがない日々を送っている。
俺の親父は、その会社の役員だった。その縁で、俺はこうしてブラギンスキ家の世話になっている。
「あぁ、楽しみね、早く着かないかしら」
「もっと早い移動手段があっただろ、なんでこんなオンボロ列車にしたんだよ」
「あら、レトロで素敵だと思ったんだけど、お気に召さなかった?」
「いや、そういう訳じゃねぇけど……」
「姉さんが一等車なんて用意してくれたから、ギルくん恐縮してるんだよ。でも、本当に素敵な旅だね、ありがとう」
「イヴァンちゃん、かわいい! 喜んでもらえて良かったわ」
「おいおい、そんなに撫でまわしたら……着くまでにイヴァンの身長が縮んじまうぞ」
「縮まないよ、僕、けっこう丈夫だから」
「……いや、マジに受けとるなって」
これから向かうのも一家と縁のある場所らしい。農園に併設された小さなホテルは、もともと数部屋しかないこじんまりとしたところで、今回はほぼ貸し切り状態だと聞いていた。
「もともとは別荘だったのよ。最近じゃ維持も難しいから、取り壊そうかって話も出たんだけど、お父様のご友人が貰い受けてくださってね」
「無くなっちゃわなくて良かったよね。いいところなんだよ、ギルくん、ひまわり畑もあるんだよ」
「ん、イヴァン、お前も行ったことあるのか」
「うん、毎年、夏休みはあそこ。ここ二年は、受験とかがあったから……久しぶりだなぁ、変わってないかな」
一昨年の受験と、そうか、去年は俺がやって来たばかりだったから。もしかすると、遠慮してくれたのかもしれない。
家族の大事な場所へ、俺なんかが同行してよいのだろうかと、そう思わないでもない。口にして気を遣わせるのもためらわれて、おとなしく飲み込んだ。
「……ひまわり、好きなのかよ」
「うん、好き!」
とびきりの笑顔を見せられて、驚いた。こいつが即答するなんて、珍しい。そうか、それほど好きなのか。
ご機嫌な姉の隣で、どうやらイヴァンもかなり浮かれているようた。なんだか俺まで、到着するのが楽しみになってきた。
窓の外を指さし、二人は景色についてや、別荘での思い出について語りだす。俺は適当に聞き流しながら、またこっそり、イヴァンの観察をはじめた。
たしかに、この一年でずいぶん背が伸びた。俺だって年齢なりに伸びたし、高い方だとは思うが、こいつの成長ぶりには叶わない。たぶん、背はもう追い越せない。
もともとが幼い顔立ちだから、どんどん変わっていく姿が、余計に印象的に映るのかもしれない。輪郭にまるみは残っているものの、骨格がしっかりして、心なしか精悍な顔に変わってきている。――笑うと台無しだけどな、まだまだお子様だ。
半袖からのびた腕を見ていると、なぜか、何とも言えない気持ちになった。男らしい腕と言えるかもしれない、手だって、あらためて見ると、こんなに大きかっただろうかと思う。いつも触れているはずなのに、一緒に暮らしていると、案外見えていないようだ。
自分の手に視線を落とした。さっきまで繋いでいた方、左手を、かるく握って、また開く。その時、木の床に詩集が落ちているのに気がついた。さっき俺が足をぶつけた際、落としてしまったものだろう。そっと拾いあげ、汚れていないのを確認してから、トランクの上に戻す。
ふと、顔を上げたら、今度はイヴァンが俺を見つめていた。目が合っただけで、嬉しそうにはにかむ。まったく、浮かれやがって。
意地悪く、べろっと舌を出して笑ってやれば、どこか安心したように姉との会話に戻っていった。
俺も外を眺めることにして、古びた木枠に手をつき、車窓を流れる田園風景に目をやった。耳に心地よく響いてくるのは、列車の軋みと、よく似た二人の笑い声だった。
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