03
* * *

 夏の午後が、きらきらとまばゆく降り注いでいる。

「イヴァン、起きろ……こんなところで寝るな」

 かっと白く照らされた地面に、濃い影を落としているのは、眩しく咲いた、ひまわりの花だ。
 日差しを避けて、木陰でひと休みするつもりが、気づけばイヴァンが眠りこんでしまっていた。寝息と上下する胸に、木漏れ日を降らせて、大きく枝葉をひろげた樹からは、みずみずしい夏の香りがする。

「ふっ、はしゃぎ疲れたのか」

 あどけない寝顔を見下ろし、すこし涼しくしてやった方がいいかと、ストールに手をやった。さらさらとした素朴な風合いのリネンを、ゆるめようとする。

「……だめ」

 すると、閉じられたままの目蓋が、わずかに動いた。

「……これはだめ、ぼくの」

 むずがるように、首元を守ろうとした仕草に、俺は苦笑した。ふわりとあたたかい手が、俺の手をつつみこんでくる。

「あぁ、とったりしない。大事なんだろ、分かってる。楽にしてやろうかと思っただけだ」
「ギルくん、だ」
「ん?」

 ゆっくりと、まどろんだ瞳があらわれた。イヴァンは首をひねり、隣に座る俺と、あたりの景色とを確認する。そうして、寝息と変わらない、おだやかな息を吐いた。

「夢のなかでも、こうしてたんだ。目が覚めても君がいたから、びっくりしちゃった」

 夢のなかでも、この木陰にいたのだと、嬉しそうに話す。ひまわり畑には風が吹いていて、僕はずっと君を見ていた、と。言い終われば、また目を閉じようとする。

 その顔に、胸の奥がつきつきと痛むから、俺はゆるく笑ってやることしかできない。こんなに幸せそうな顔は、初めて見た。
 イヴァンもまた、笑うように眉を下げている。おかしがたい幸福が、そこにある気がした。こいつ、本当にこの場所が好きなんだな。

 ストールはそのままに、指で首元の汗をぬぐった。嫌がられるかと思ったが、それは構わないらしい。

「……熱中症になったら、お前の姉ちゃん心配するぞ」
「きもちいいから、もうちょっと」

 遠くから、俺たちを呼ぶ声が聞こえた。声のした方を振り向くと、軽やかに手を振る人がいて、俺が振り返せば、こちらへおいでと手招きする。スーツもきまっていたけれど、こっちの方がずっと良い。ゆったりした人のいい笑顔に、白いサマードレスがよく似合っている。

 もっと寝ていたそうなイヴァンは、姉に呼ばれたと気づいているだろうに、起きあがろうとしない。

「じゃあ、お前の分のアイスはいらないな?」
「……だめ、いる!」
「ははは、この食いしん坊」

 一足先に、俺は駆けだした。慌てて飛び起きたイヴァンは転びかけ、ぱっと笑う。ひまわり畑の小道を走れば、風が遅れてついてくる。日差しを浴び、息がきれるのも楽しかった。




「町まで買いに行こうとしたらね、ホテルの料理長さんが、特別に作ってくださっていたの。ふふ、イヴァンちゃんがアイスクリームを落として泣いたこと、覚えてらしたわ」
「ぷっ、そうなのか?」
「もう、子どもの頃の話だってば。姉さん、そっちは何の味?」
「ローズ、めずらしいでしょ」
「ギルくんのは?」
「ミルクじゃないか? すげぇ、うまいなコレ」
「う、う……どっちにしよう……」
「昔もそうやって悩んでたわよ、変わらないわね」
「まだ子どもだな」

 よく冷えたグラスが並び、二色のアイスがそれぞれ盛りつけられている。クーラーボックスの前で優柔不断を発揮し、なかなか決められないでいるイヴァンを横に、俺はさっさとスプーンを口に運んだ。こんなもの、何を食べても同じかと思っていたが、さすがにプロの手作りは違うらしい。舌を冷たくした後に、ミルクの味がしっかりと残る。

「……ふたつとも、はダメ、だよね?」
「あー、もう! 俺の半分やるから、お前はこっち」 
「うん」
「お前も半分よこせよ……あ、落とすから、俺がやってやる」
「うん、ありがとう……わぁ、おいしいね!」

 籐の椅子には白い布が敷かれている。ガーデンテーブルの足も籐だ、天辺にはガラスのプレートが置かれていた。どれもよく磨かれ、光沢がある。

 テラスは明るく、風通りもいい。先ほどまで老夫婦が静かに過ごしていたが、彼らが室内に戻ってしまってから、他に訪れる者はいなかった。たしかに、ほぼ貸し切り状態だ。贅沢すぎて、なんだか自分だけ場違いな気がする。それでも、二人がリラックスして、いつも通りの調子でいてくれるので、俺は密かにほっとしていた。

「あなたたち、いつの間にか仲良しになったわねぇ」
「うっ……」
「うん、仲良しだよ」

 ぎくりとした俺は思わず手を止めてしまったが、イヴァンは何も感じていないのか、図太いのか、あっさりと肯定する。頷きながら、ぺろりとスプーンを舐めた。

「学校でも、こんな風にしてるの?」
「いや……あえて知らねぇフリしてる。こいつの世話焼いてるとキリがない」
「ギルくん、学校でも家でも勉強ばっかりしてて、あんまり構ってくれないんだ」
「そんなことないだろ」
「今回の旅行にまで、勉強道具もってきてるんだよ」
「そうなの? ギルちゃん、あんまり根つめてると疲れちゃうわよ。夏休みくらい遊ばないと」
「分かってるって」
「ぼくのことも構ってくれる?」
「あーあー、考えとくぜ」
「あらあら」

 俺達のやりとりを眺め、くすくすと笑う。頬杖をついた手に、にこやかな顔をそっとのせて。彼女の表情に、それ以上の含みはないように見えた。

「姉さん、この後はどうするの?」

 あっという間にアイスをたいらげて、イヴァンは声を弾ませている。

「そうね、まだ日暮れまで時間があるし、丘の向こうまで歩きましょうか。ギルちゃん、丘をこえると教会があるのよ、とても綺麗なの……あら、雨雲かしら」

 たったいま指された方角の空が、見る間に暗くなっていく。雲の層はまだ薄いようだが、山の近くは天気が変わりやすい、そのうち一雨くるかもしれない。

「……いつでも行けるわ、まだ休みは長いんだから……もう、今度は何なの」

 小さなハンドバッグのなかから呼び出し音が鳴った。どうやらまた仕事の電話だ、休暇中でも律儀に対応をするらしく、到着してからたびたび呼び出されている。『また二人で遊んできて』と言い残し、部屋へと戻ってしまった。

「行こう、ギルくん」
「は? だって、雨が、」
「濡れるのなんか平気だよ、ね?」

 ごく自然に手を引かれて、驚いた俺は、ひとまず周りを確認した。誰もいない、それにしても大胆すぎないか。
 迷いなく歩きだすイヴァンに、少し呆気にとられたまま、手を繋いだままで連いて行く。

 朝から楽しいことばかりで、気が緩んでいる、きっとそうだ。それに加えて、勝手を知った場所にいるという安心感もあるのかもしれない。強引だと感じるくらい、その足取りはしっかりとしていた。気を張っていない時のイヴァンが、こんなに堂々としているなんて。

「イヴァン、」
「どうかした?」
「あ……なんでもない」

 お前がそんなに落ち着いていると、なぜか俺は落ち着かない。なんだかお前の挙動ばかり気にしてしまって、無駄に呼び止めたくなる。

 歩きながら振り向いたイヴァンは、眩しそうに手を日除けにして、その指の隙間から、細めた目で俺を見た。そうかと思えば、にこっと眩しい笑顔をくれて、俺の胸を締めつけてくる。

「おかしなギルくん。あっ、晴れてきた」
「……ほんとだな」
「もうじき夕方なのに、ここはまだこんなに暑い」

 汗ばんだ手のひらを避けて、かるく指だけを繋ぎなおし、歩いていく。
 次第に口数は少なくなり、やがて完全に黙りこんだ。――それは気まずさとは違う種類の沈黙だった。俺たちは、何も話さなくても平気だから。出会ったばかりの頃から、そうだった。

 告白をされる前も、今も。こういう静かな時が訪れると、俺は奇妙な緊張感と、心地よさとに包まれる。何も話さなくても、イヴァンが何を見ているのか分かる気がした。不可解なその感情に、苛だつこともあったが、今はたいてい良い方向にはたらいた。

 きっと、俺たちは似ているのだ。表面上はまったく違う、むしろ正反対と言ってもいい。
 気が合う相手だったら他にいる、施設で弟と呼んでいたあいつも、学校での仲間もそうだ。一緒にいると会話が弾んで、苛つくことなど滅多にない。

 俺とイヴァンは、気質や性格ではなくて、もっと芯の部分が似ていると思う。

「……大きいね」
「あの雲だろ?」
「うん」
「あぁ、夏っぽい」
「うん」 

 上辺でなく、奥底にかかえたものが似ていた。俺たちは、いつでもひとり≠セった。

 誰に優しくしてもらっても、どんなに楽しい時を過ごしても。こうして二人、手を繋いでいる時でさえ、本当の意味では満たされない。それは人として、なにか、とりかえしがつかないことのようにも思う。だけど俺はこれでいいと思っているし、イヴァンもきっと分かっていて、俺と一緒にいるのだろう。

 何も言葉を交わさなくても、同じ雲を見ていた。そんなちっぽけなことが、まるで何かの証明のように、心を軽くする。

 けたたましく蝉が鳴いている。雨の気配は遠のき、風すらやんで、蒸すような暑さが残った。さっきは駆け抜けた道を、今度はゆっくりと戻っていく。道はなだらかに傾斜していて、ひまわり畑を抜ければ、丘の向こうへ行けるらしい。

 舗装された道を歩いていたときよりも、畑に足を踏み入れた瞬間に、ふわっと熱が増した。花の群れのなかは、今にもしたたってきそうな、植物の水気が満ちている。繋いだ指先が滑りそうになるたび、何度も絡めなおしては、また繋いだ。

 汗がぽたぽたと落ちて、体がけだるい。お前のそれは、きらめいている、俺の汗とは違うものなのかもしれない。そんなことを思うくらい、イヴァンの表情は穏やかだ。どんなに汗をかいても、瞳にはすずしげな喜びを浮かべていた。暑がりのくせに、今日だけはちっとも辛そうではない。

「……お前も姉ちゃんも、本当に好きなんだな、この場所が」
「うん、姉さんは特にね。僕はあんまり覚えてないけど、昔は家族で来たらしいんだ」

 亡くなった両親も一緒にか。それなら本当に、大切な場所のはずだ。

 やんでいた風が、いつの間にかまた頬に吹きつける。空は晴れているのに、どこか遠くで、雷の音を聞いた気がした。しめったにおいが空気にただよって、二人揃って足をとめる。しかし、夏の空は気まぐれだ、降ってくるかはまだ分からない。

「……俺が一緒で、良かったのかよ」
「……?」

 黙ったまま、イヴァンはこちらに向き直った。俺がうつむけば、不思議そうに顔を覗きこみ、両手に柔らかな指を絡めてくる。
 俺たちの頭は、花の背よりも高いが、繋いだ両手は影のなかだ。交わす言葉も、何もかも、今は二人きりの秘密だった。

「俺も一緒で、良かったのか」
「……君と来れてよかった。すごくすごく楽しみだったんだ、君とここに来るのが」
「そう、か」

 俺への気遣いなどでなく、心の底から、嬉しくて仕方ないという声だった。顔を上げれば、真っ直ぐな視線とぶつかる。熱意にも似た、しなやかな優しさをたたえた瞳が、俺を見ている。

「僕の大好きな場所だから、君にも見せたかった」
「俺も……好きだよ。ここは良いところだ」
「よかった」

 手が離れたかと思ったら、突然、あたたかい抱擁を受けた。腕のなかにいたのは一瞬のことで、すぐに放り出され、また空が見える。

「ごめん、暑いよね、やめよう」
「お、おう」

 自然に体が動いてしまった、という印象のハグだった。照れた様子もない、慌てているのは俺だけか。

 暑いからやめよう、と言ったか。もしも暑くなかったら、どうなっていたんだ。

 今日のイヴァンは機嫌が良すぎて、どこかおかしい。そして俺も、心臓をどきどき脈打たせてばかりで、ずいぶんとおかしかった。おそらく期待している。何をだろう、気づきたくない。

「ゆっくり行こう、君と歩くの、好きなんだ」

 ふたたび、指先を繋いで歩きはじめるのが、どうにも切なく、もどかしい。

 花の根本に日陰はあるが、白い石のまじる小道に、じりじりと光が照り返し、靴底から足が溶けそうだ。時刻は三時半をまわった頃だろうか。太陽はわずかに西へ傾き、あたりを暖色に染めはじめる。

「君も、お父さんとどこかへ行った?」
「……いや、親父と過ごした夏は、二回しかないし。いろいろあって、それどころじゃなかった」
「え? ……そうなんだ」

 しんなりと、自分のなかに沁みこんでくるような、緑のにおい。日差しはくるくると踊り、ひまわりの大きな葉を縁取る。花の色はあざやかすぎるほど照らされて、まるで花そのものが、西陽に向かって光りだすようだ。

 汗がとまらない、でも、汗をかくのは嫌いじゃない。――親父との夏を思い出すから。

「今年こそ、どこかへ出かけようって言ってた、三度目の夏に……親父は逝っちまったから」

 そうだ、結局、どこにも行かず仕舞いだった。
 イヴァンは足をとめて、傍らの緑を見つめた。視線の先にいたのは、キアゲハだ。蝶のために足をとめたのか、何かを言うために止まったのか、曖昧なままで時間が流れる。

「……あ、肩に」
「……」
「すごい、きれいだね」

 蝶はひらひらと舞い、俺の肩で羽を休める。他にとまる場所など、いくらでもあるだろうに。イヴァンが楽しげにしているので、全く身動きがとれなくなる。

 ――その時、俺は、馬鹿なことを考えてしまった。

 夏を誇らしげに咲ききる花が、いちめんに広がっている。緑はどこまでも明るい。夏を愛していた親父なら、きっと気に入る景色だと思った。

 親父にも、この光景を見せたい。今ここに、親父もいれば良かったのに。

「きれい」
「ん、わかったから」
「そうじゃなくて、君が」
「……俺?」
「髪がきらきらしてる、すごい、ひまわりの色だ」

 おれの髪に、まわりの色が映っていると言う。

 背を見上げながら、いつも親父を見上げていたことを、心のどこかで思った。イヴァンのなかに、勝手に重ね合わせて。けれど、すぐに光が塗り替えていく。

 蝶が飛びたつ、行方を追うことはできない。見つめてくる瞳にすいよせられて、暑さのなか、顔がさらに火照っていく。まただ、もう今日だけで何度目だろう、胸がどきどきと痛みだす。

「あ、」

 頬を、撫でられた。

「なにを考えてるの?」
「なにも、考えて、ない」
「……だめ、僕のこと、考えて……」 

 イヴァンは、綺麗だと言った俺の髪を梳き、そのまま襟足を撫でて、囁きながら顔を落としてくる。すき、と囁きながら。

 弱いところを、そわりと震えさせるような声。感覚のほとんどを、頬の熱さが占めていって、素直にイヴァンの影へと入る。

「……ン、」
「ギルくん」

 唇は、驚くほど柔らかかった。感触だけじゃなくて、音まで。ちゅ、と、ひかえめな音で。

「……君って、キスの時、目を閉じないんだね」
「っ、」
「……どうしたの? びっくり、させちゃった?」

 はにかんだ顔を見せて、イヴァンがもう一度くちづけてきた瞬間、心臓が止まりそうになった。今までとは違う痛みが走りぬける。

 余裕をもって、ゆっくりと。相手を怯えさせないように、頬を撫でながら、唇をはむような。思いやりに満ちた触れ方に、打ちのめされた。

 ――こいつ、どうして慣れてるんだ。

「お前、もしかして……俺が初めてじゃない、のか」
「……えっ」

 大きな瞳がぐらついた。お前は、嘘を吐けないから。やっぱり、そうなのか。
 ふざけるな。そんなことを叫びそうになって、眉をしかめる。違う、そうじゃない。名前のつけられない感情が、俺のなかで暴れだす。

 ずっと、触られたかった。でも、今は触られたくない。なんだ、これ、こんなの知らない。

「……きもちわるい」
「ギ、ル」
「イヴァン、俺、」

 急激な目眩のなかで、蝉の声がうるさく反響した。汗が流れて止まらない、指先から血の気が引いていく。

「……吐きそう」

 意識が遠のいて、目の前の肩にしがみついた。そこまでは覚えているが、後は何も、分からなくなった。

* * *