* * *
学校が終われば、寄り道もせず、一目散に帰宅した。まだ日の落ちない通学路を、ひとりで歩きながら、鍵のかかっていないことを期待して。親父の帰宅時間はまちまちだったが、早く帰っている日は、家の鍵が開いているので分かる。元気よく扉を開ければ、すぐに声をかけてくれた。
「おかえり」
「ただいま! あちぃな。あっ、冷房つけろよ、倒れちまうぞ」
「一人じゃ勿体ないじゃないか」
「前までずっと一人だったんだろ? どうやって暮らしてきたんだよ」
「あぁ、そうだったな。つい忘れていた」
「ボケるには早いぞ!」
スイッチを入れてから、郵便受けを見に行く。親父に新聞をわたすのと、届いたものを確認するのは俺の仕事だ。その日、俺は郵便物とともに、鞄からプリントを取り出して、食卓に置いた。
「これ、提出するんだ」
「進路希望? まだ早いんじゃないか」
「もちろん決める必要はないけど、早くから考えとけってことだろ、後で変わってもいいって」
「そうか、では何でも、好きなことを書いていいわけだ」
紙はまだ真っ白だ。志望校は書いても書かなくてもいいそうで、将来就きたい職業と、その理由を書く欄の方が大きい。
「どうした、夢の一つや二つ、あるだろう?」
「無いわけじゃねぇけど……」
親父は新聞に目を通していた。俺は、ちら、とその顔をうかがう。
「……なぁ、どうすれば、親父みたいになれる?」
「はは、それは難しい質問だな」
「ちぇっ、真面目に訊いたのに」
「それなら真面目に言うが、ギルベルト、お前は私にはなれないよ」
「……ひでぇな」
ふてくされて視線を落とせば、ふたたび親父が笑う声がして、ばさばさと新聞が閉じられる。
「いくらでも相談にはのるさ。それでも最後は必ず、自分で決めなさい。親子とはいっても、私達は違う人間だからね……なにか、やりたいことがあるのか?」
「人の役に立つ仕事につきたい。まだ、それだけ」
俺はいつでも、どうすれば親父を喜ばせられるのか、どんな道を選べば、親父にとって自慢の息子になれるのか、そんなことばかり考えていた。エゴや期待を押しつけられないことは、有り難いことであると同時に、少し心細い。もちろんそんな我が儘を口に出したことはない。言える立場じゃないと、自分を思い留まらせた。
「これと決めたものに、自分を捧げられたら幸せだな。しかし誰かのために生きても、お前は誰か≠ノはなれない。それを忘れてはいけないよ」
「人のために頑張るのって、悪いことじゃないだろ」
「……いい子だ。本当に、良い息子をもったなぁ」
「あーっ、もう、俺のかっこいい髪型がくずれるだろ、子ども扱いすんな!」
テーブルの向こうから長い腕を伸ばして、頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。不満を言いつつも、ほっとしてしまうのが悔しい。
「親父も、そんな風に生きてきたのか」
「そうだよ」
優しいけど、厳しい人だ。子ども心に、いつもそう思っていた。この人は、俺を甘やかさない。どんな悩みや不安でも受けとめてくれるかわりに、安易に寄り添おうとはしない。『私とお前は違う』と、もうすっかり耳慣れた前置きをしてから、少しだけヒントをくれる。
理解してもらえるものだと決めつけて、人に期待をするのが当たり前になったら、いつか辛くなるのは自分自身だ。そんなことを、教えられたわけでなくとも、自然と悟るようになった。
俺が、言葉にできないもやもやを、思いつのらせそうになる時だけ。さっきのようにあの大きな手で触れてくる。頭を撫でたり、時には、ぽんと肩を叩いたり。
「これからも、そうしていくつもりだ。私がお前の見本になれるかは分からないが、私はお前から目を離さないから、安心しなさい。良いことをするなら、自分で考えたことの方がいい。二人でまったく違うことをしていても、明日は今日より良い日になる。そう思わないか?」
その通りだった。親父が、そこにいてくれる。そう思うだけで、背筋がのびて。今日できないことも、きっと明日はできるようになると思える。そんな自分が、嬉しくて、誇らしい。
「お前は、お前のためだけに生きなさい。……私は難しいことを言っているね、分かるかな」
「正直、わかんねぇ」
「はは、やっぱりか」
「……でも、きっと、いつか分かる」
口ごもらずに、はっきりとそう言えた。胸を張り、顔を上げた俺に、親父は目を細める。
「お前のそういうところが、私には眩しいよ。いったいどんな大人になるんだろうね、先が楽しみだな」
信頼している、と、親父の目が伝えてくるから。俺はむずがゆくて、照れた笑いを浮かべてしまう。きっと、べたべたと甘やかされるよりも、とびきり甘い、特別な視線のやりとりだ。
ときどき、なんだか泣きたくなるくらい、幸せに感じて、不思議で。――それが別れの予感だったのかどうかは、今も分からない。
両親を知らない俺は、永遠に続くものなどないと、理解していたはずだ。それでも、あまりにも早すぎた。
* * *
目を閉じたまま、自分の頬に日差しがかかるのを感じた。伝わってくる体温が、陽の光とは比べものにならないくらい、心地よい。なんだ、なにか温かいものが、頭を支えてくれている。あいつの体温に似ているけど、あいつよりもっと、柔らかい。
「顔色が戻ってきたかな、もう大丈夫そう」
光に昼間の勢いは消えていて、そっと薄目を開ければ、金色に染まった室内が見える、もう日暮れなのか。ぼやけた頭で、誰かの声に耳をすました。
「起きてるの?」
声まで、淡い金色だと、そう思った。きらきらと耳に降り注いでくる。夕方の蝉も遠くで鳴いた。やすらいでいる自分に気づいて、すっと息を吸いこんで、おだやかに吐き出すつもりが、こぼれるような吐息になった。気持ちがやすらぐほどに、呼吸は意味もなく震える。
「……もっと楽にしていいのよ、ギルちゃん」
名前を呼ばれて、ようやく声の主に気がついた。それじゃ、頭の下にあるものは、彼女の膝か。
「……うわっ!」
「あ、まだ動かないほうが、」
慌てて跳ね起きようとした途端に、目がくらんで、また不甲斐なく膝を借りてしまう。いったいどうして、こんな状況に、なんだこの柔らかさは。すっかり混乱していると、落ち着かせようとする手が頭を撫でて、かっと顔が熱くなった。
あまんじて手を受け入れていると、少しずつ周りが見えてくる。ホテルの部屋のなかだ、俺はソファに横たえられている。そうだ、暑さに気分を悪くして、倒れたのだった。どうやってここまで帰り着いたのか覚えていない、きっと二人に世話をかけてしまった。
「気分はどう、なんだか懐かしそうな顔をしてたわ」
「……夢、みてたからな。いま、何時だ」
「お夕飯まで、もうちょっと時間があるから、まだ寝ていたら?」
まだ寝ていたらと言われても、この膝でか、恥ずかしすぎる。
「お、重くねぇの」
「あら、平気よ。私、けっこう丈夫だから」
弟とおなじことを言ってると気づき、ついつい笑ってしまった。こうなったら仕方ないと思い、力を抜く。
「ごめんなさいね」
「いや、俺の自己管理が悪いんだ……うぇ、まだふらふらする」
イヴァンはどこにいるのか、姿が見えない。おそらく落ち込んでいるだろうと思った。連れ回したせいで俺が倒れたと、勘違いしているかもしれない。
たしかに、慣れない道を、あいつのペースで歩いたのは良くなかったが、こんなの失態だ。考えごとに気をとられて、自分の体調に気がつかなかった。思い返せば、ものすごく情けない。
「謝ったのは、そのことじゃないの。……夏休み、本当は二人だけで過ごしたかったでしょう? 私のわがままで、ここに連れてきちゃったから」
「え……あ、」
何を言われているのか、最初は分からなかった。そっと、真上にある顔を見れば、なんでもお見通しだと言いたげに微笑んでいる。雨上がりの空みたいな、さっぱりとした青い目をして。
「……気づいてたのか、俺たちのこと」
「ええ」
こんな時は、何を言えばいいのか、言うべきことを考えあぐねる。どうして、そんなに嬉しそうなんだ。照れくさくて見ていられない。結局、俺は何も言わないことに決めて、顔を反らした。
「二人のお邪魔虫はしないから、イヴァンちゃんを独り占めしないでね。あの子が大人になるまで、あと少しの間だけでいいの、私にも時間をちょうだい」
まだ目眩が残っていて、わずかに思考をくもらせている。くらくらする頭で見る夕焼けが、この上なく綺麗だった。
きっと人の視界なんて、適当につくられているのだ。現実感がかすんだ状況ならば、見たいものを見るようになっている。だから、初めて見るはずの夕陽を、懐かしいなんて感じてしまう。
「べつに、あいつを俺のものにしようなんて、思ってない。……俺たち、ずっとひとり≠ネんだ」
「ひとり?」
「あっ、いや……なんつったらいいのか」
「私で良かったら、話してくれないかな」
こんな時に、打ち明け話をしたくなる心情が、自分でも分からなかった。人の肌を感じると、体が勝手に、楽になりたがるのか。膝にもたれたままでいると、浮かんでくる言葉が、ぽつぽつと口から出ていく。
「想い合っても……俺、変われないから……ひとり≠フまんまだ」
ぎゅっと、自分の胸元をつかんだ。この奥にあるものが、勝手に、あいつを好きになった。自分の意思じゃない、好きになりたくなかった、好きになって良かったのかと、今もそう思っている。どうしてそんな言い訳をするんだ、ばからしい。そう思う自分もいるのに、どこかで、ずっとこだわっている。
「俺は、ひとりで生きていきたい。あいつも、俺なんかとじゃ、寂しいのが変わらない……なら、俺じゃない方がいい」
「……」
「わりぃ、全然うまく話せねぇ……」
俺は、俺のなかのひとり≠持て余している。だけど、ひとり≠ナいたいと望んでもいる。言葉にするなかで、矛盾に気づいた。気づいてしまった以上は、厄介でも認めなければいけない。ちいさく、溜め息をつく。
「その、『俺じゃなくてもいい』っていうのは?」
「……あいつさ……彼女……とか、……いたのか」
「えっ、そういうこと?」
「あ〜、くそ、こんなはずじゃ……」
言わなくていいことまで言っている。というより、聞き出すのが妙に上手い気がする。近すぎる距離もあってか、いつの間にやら、隠しごとが出来ない雰囲気になっていた。女だからだろうか、それとも、大人だからか。どちらにしろ油断ならない。
「それはそうよ、あの子は穏やかだし、礼儀正しいし。おまけに顔が可愛いでしょう。何を考えてるのか分からないところはあるけど」
「お、おい、」
自分の弟のことを褒めちぎったかと思えば、最後のはひどいんじゃないか。というか、実の姉から見てもそうなのか。
「それに、う〜ん、私が自分で言うのもアレだけど、うちはお金持ちだし……女の子が放っておくと思う?」
「……まぁ、そうだな」
たしかに、イヴァンは物腰が柔らかく、控えめな人間に見えるだろう。黙ってにこにこ笑っている姿だけを見れば、の話だ。俺も出会ったばかりの頃は、ただ鈍くさい奴だと思っていた。実際には頑固だし、ここぞという時の押しの強さも尋常ではないが、それは深く接してみなければ分からない。
「何人か、いたんじゃないかしら、一人ではないわね。でも、あの子が自分から告白したのは、ギルちゃんだけだと思うわ。本当よ」
イヴァンを恋愛相手に選ぶ奴はいるのか、それも、何人も。考えるほどに、胸がざわついた、これはいったい何なんだ。あの鈍くささが許容できるのは、俺ぐらいだろうと、おごっていたのかもしれない。そんな自分が受け入れられないのだろうか。動揺してしまう理由を、単なる嫉妬だとは思いたくない。
「ん? 今、なんて……なんでイヴァンからだって知ってるんだよ」
「あは、ちょっと言ってみたの、そんな気がしたから」
当たっちゃった、と悪びれずに喜んでいるのを見て、ただでさえ調子の悪い頭が、がんがん痛んだ。女はみんなこうなのだろうか、おそろしい。
「……誰を選ぶかは、あの子が決めることだと思うわ」
「え、あぁ、」
「だから、あの子には絶対に言っちゃだめよ、さっきみたいなこと」
唐突に、口調が厳しくなった。俺じゃない方がいいと、そう口走ってしまったことだろう。
「自信家のあなたらしくもない、それに、好きになった相手に失礼よ。そうじゃない?」
「……違う、そんなんじゃない。ただ、分からないだけだ」
「なにが、分からないの」
「どうしたら、あいつをひとり≠カゃなくせるのか。……俺は、ずっとひとりでいい。でも、あいつは駄目だ、欲しがってる」
欲しがってることに、気づいていない。いや、気づいていないフリをして、諦めてる。こんなこと、どうして俺が悩まなきゃいけないんだ、俺が苦しんだって無意味なのに。
「それだって、あなたが決めることなのかしら」
「……そうだな」
ぴしゃりと言われて、頷くしかなかった。
誰かが俺に、悩めと言ったわけじゃない。それなのに、気づけばひとりでに、考えてしまう。それも、俺の胸の奥底にいる何かが、勝手にやっていることだった。あいつのことを、考えれば考えるほどに、なんだか自分がばらばらになっていく気がする。
ふっ、と頭上で、困ったような笑いがもれた。どうせガキだ、笑われてもいい。
「あの子のこと、よく見てるのね。ありがとう」
「……見たくて見てるんじゃない、あいつが目に入ってくるんだよ、俺に断りもなく……」
感謝されることなんて、何ひとつしていなかった。つくづく自分勝手だ、そう思うと、また胸をかきむしりたくなる。
「ギルちゃんのそういうところ、好きよ。フリッツさんによく似てる」
一瞬だけ見せた厳しさを、またどこかへ隠して。すっきりとした目で俺を見る。芯の強そうな瞳に、俺は心地よさを覚えた。どうしてかなんて考えるまでもなく、その理由は明白だ。似ているからだ、イヴァンに。
どうしたって俺の感情は、あいつに向かってしまうのか。思い通りにならない気持ちが、触れあった体温に溶けていく。やっぱりそれもイヴァンに似ていて、繋いだ手と同じ温度だ。
そういえば、この部屋にはイヴァンが居ない。あいつ、どこに行ってるんだ。
「親父と、俺……どこが」
「おしゃべりはこれくらいにして、休まないと」
目蓋が重くなってきたかと思えば、あっという間に、いくらも開けていられなくなった。とろとろ、まどろみそうになりながら。ぼんやりと、まだ、イヴァンの姿を探している。
早くあいつに会って、昼間のことを、謝ってやらないと。抱きしめられたことや、唇の感触を思い出せば、体中がそわそわしてくる。ちゃんと向き合えるか分からない。でも、そんな不安より、最後に見た顔が気にかかった。傷ついたような顔をしていた。
せっかく、大好きな場所で、くつろいだ表情を見せていたのに。あの顔を、もう一度見たい。明日、また歩こう、あの道を。
「どこ、が」
「……とっても優しいところと、誰にも寄りかからないところ。だけど、あなたと、あなたのお父様だけじゃない。みんな、ひとりで生きているの。それでも居場所が必要なのよ」
不思議な姉弟だ、声を聴くだけで、安らぐ。もう半分以上、眠りに落ちかけている頭で、そう思った。
窓の外では、金色の太陽が沈んでいく。二人の髪によく似ている、あたたかい色だ。
「ギルちゃん、あなたには、あなたにしか出来ないことがあると思うわ」
「……ん……ねむっても、いいか」
「ええ、おやすみなさい」
目を閉じても、しばらくの間、その色が自分を包み込んでいるように感じていた。蝉の声がやんで、一旦あたりがしんとする。あぁ、もうじき、ひぐらしが鳴きだすはずだ。それを待っていたら、静かに扉が開く気配がした。
「姉さん、氷、もらってきたよ……あ、」
「ありがとう。今ね、起きてお話をしてたんだけど、また眠っちゃったわ」
イヴァンの声だ――イヴァン。呼びかけようとしても、もう体が動かない。
「うん、ちょっとだけ安心した、気持ちよさそうな顔してるね……いいな、」
「イヴァンちゃんも、おいで」
「うん」
あぁ、今、俺の隣に来たと、ぬくもりで分かる。今度こそ俺は、深く息を吸って、ゆっくりと吐いて、あたたかい眠りに落ちていった。
* * *