* * *
夢を、見た。ましろい百合の香りに、つつまれていた。
夢が覚めないよう、そぅっと目を開けた僕は、なつかしい人の面影を見た気がする。それは百合の花だったのか、花によく似た、あの人の微笑みだったのか。
花びらが、風に散った。いちまい、にまい。ほてりと白い花びらが、すぅっと光の尾をひいて、いつしかウサギの耳にかわる。
「ギル、」
僕は、君の名前を呼んだ気がする。
花畑は、さらさら、満ちあふれた香りが流れだし、ひとつの道筋になっていく。香りは澄んだ水となり、気がつけば、僕は川原に立っていた。
心のやすまる思い出は、心がさわぐ憧れへとかわり、夢の岸辺をせせらいだ。
「ギル……、」
花びらのような耳が、目に映る。白いウサギが、ひょこひょこ、川の向こう岸を歩いていくのだ。流れに沿って、どこかを目指して。
あぁ、まだ行かないで。もう少しだけ、そばにいて。
* * *
「……起きろよ、起きろって、」
夢から覚めるひとときは、何もない澄んだ空間にひとり、ぷかりと浮いたような心地になる。夢でも現実でもない、眠りの狭間だ。
そこで全てを忘れて、なかったことにするようだ。花の香りも、何もかも忘れてから、僕はうとうと目を覚ました。
「イヴァン、起きろ。俺たち、眠りすぎたぞ」
「ん……もう朝?」
「ちがう、ちがう、目を開けてみろよ」
何度も揺すぶられ、終いには耳をつねられてから、ぱちりと目をひらく。
「わぁ……っ」
いつの間にか、辺りは真っ暗だ。黒い葉陰に、木々の枝、青ざめた夜の森。視線が空へと誘われ、僕はそれを見つけて、思わず声を上げた。夜空にぽっかりと浮かんだ、まんまるの月だ。
「……お月さま、こんばんは」
見ただけで、にっこりと笑顔になるような、満ちたりた月だった。隣を見れば、ギルも嬉しそう。目が合うと、はにかんで、耳をぱたぱた羽ばたかせる。
「ギル、いい夜だね」
「あぁ、いい夜だ」
ちりりん、と遠い虫の声が、かすかに森を震わせていた。夜の空気、夜の音が、ひと息ごとに体に沁みた。まるでみんな、 夜の森 ≠ニいう生き物になっていくみたい。ひとつになって、呼吸する。
「あっという間に、夜になっちゃったね」
「な? 眠りすぎたって言っただろ」
「うん、満月が昇ってくるところ、見れなかったぁ」
言いながらも、また体を横たえようとしたら、おいおいとギルが止めに入る。
「俺がせっかく起こしたのに、寝るなよ! 眠いのか?」
「ううん、空を見ないと、お月さまとお話できないでしょ? 見上げてると首が疲れちゃうし、転がるのがいいんだよ」
「……おはなし?」
「うん、おしゃべりしたこと、ないの?」
「ない」
そうか、ギルはまだ知らないのか。僕のほうが、月の森で暮らして長いからかな。
この森の秘密、月がこんなに明るい理由に、ギルはまだ気がついていないようだ。
「月と話せるって? ウサギはそんなことしないぞ、クマだけじゃないのか?」
「そんなことないと思うけどなぁ……じゃあ、丘のてっぺんまで行こうか。いちばん近くに行けば、君にも分かるかもしれないから」
行こう、と手を差し出した。ギルはいぶかしみながらも、こくんと頷く。だけど、僕の手を取ってはくれなかった。
つん、と鼻を反らして、なぜだか頬を染めた。素早い足で、さっさと歩きだしてしまう。
「あ、待ってよ、一緒に行こうよ」
「あんまりのろいと、置いてくぞ!」
べつに怒ってはいないみたいだ、はやくはやくと急かして、むしろご機嫌に見える。こんなに機嫌が良いのは、お月さまのおかげかな。
ギルが先に行ってしまったので、僕はひとりで、小高い丘を登っていった。月明かりに不安はない、足元は明るく、確かだ。こんなに輝く月を見たのは、いつぶりだろうか。
自分の影をふりかえる。夜露にしめった草の上を、やわらかい影が、するすると僕に連いてくるから可笑しい。
ふっと意識が体から離れ、自分を見下ろしているような気になる。月光に、真っ白に照らされている僕の体を。樅の木と並んで、一緒に眺めた気になった。
「あれ? ギル、いなくなっちゃった」
我に返れば、前を行く姿が消えている。きっと一足先に頂上へ着いたのだろう。ここは傾斜が最もきついところ、ここから丘のてっぺんは見えない。
なんだか、僕は大きくなりすぎたのかな。体が重くて仕方ない、これっぽっちの坂を登るのも一苦労だ。うんとこせ、と足を上げる。
重たいけれど、まだまだもっと太らなきゃ、まだ冬を越せる体じゃない。秋になったら、今よりもっと魚を捕って、木の実も食べて、それで――。
あれこれと考えているうち、頂上が見えてきた時のことだ。吐息のような風が、僕の肩にふれる。この風には覚えがある。
あれ、と思い、足を止めた。背後にある森から、やさしく吹き抜けてきた風だ。僕の肩をかすめて、月へ。森の息吹が、視線の先へと予感を運ぶ。
いつの間にか、坂を登りきっていたようだ。ひらけた丘の中心に、見知らぬ姿を見つけた。
「あれ……誰、だっけ……?」
ぼうっと夜に浮かびあがる体は、照らされるのではなく、自ら淡く発光するかのよう。月光にたたえられた後ろ姿に、目を奪われた。
一羽のウサギが、丘の頂上に立っている。彼がゆっくりと、こちらを振り向いた。輪郭のすみずみまでを、仄明るい白光がつつんでいる。
つんと高い鼻が、うわむいた唇が、光に縁取られていて綺麗だ。冷たい水に磨かれた、泉の底の石みたい。硬くて、けれど柔らかくて、撫でれば手にひたりと吸いつきそうな、なめらかな肌だった。
ぶわっ、と、総毛立つ。飛びつきたいような衝動を抑えながら、僕はとにかく、その姿を、隅々まで観察した。
光がすべりそうな体とは対照的に、長い耳はほわほわとして、甘くとろけた白さ。繊細な毛なみが艶めいて、耳の先まで、ぴんと立ち、かすかな夜風を切っている。
こんなに美しいものは知らない。森のなかで、今まで出会ったことはない。僕は心臓がぞくぞくと震え、よろこびに胸を上下させた。
誰だろう、知らない子だ、緊張する。近づいてみたい、でも、このまま遠くから見ていた方がいいのかな。
「のろまのイヴァン、やっと来た……」
彼が、ふわり、表情をほころばせた。
「えっ…………ギル、なの?」
思わず目をこすった。ぱちぱちとまばたきながら、もう一度よく見てみる。そうだ、僕の大切なギルだ。
目を離せないまま、おずおずと近づいていく間、ギルは何でもないような顔で待っていた。
静かに横たわり、これでいいのか、と月を見上げる。
「なんだ、突っ立ってないで、お前も寝ろよ」
「う、うん」
僕も彼にならって寝そべるが、月を見るどころではない。間違いで手が触れないよう、微妙な距離をとる。
さっきのように、抱きしめるなんてとんでもない。触れてみたいけれど、間違っても壊したくはないから、見つめるだけにとどめてしまう。
「……さっきのこと、嘘じゃないよな、本当に月としゃべったのか? 俺にはまったく話しかけてこないぞ」
「うーん……話してくれるわけじゃないよ。だけど、今がその時だって分かる、合図をくれるんだ……」
「そうなのか」
不思議そうに夜空を向いた、その横顔を見つめて思う。僕は今まで、何を見ていたのだろう。
出会ってからのわずかな間に、彼はこんなに成長していたのか。僕達は、あんまり急いで近づきすぎたから。かえって見えるものも、見えていなかったのかもしれない。
唐突に、ギルがこちらへ寝がえりをうった。楽な姿勢を探している。頬杖をついた綺麗な顔と、まともに目が合ってしまい、僕はどぎまぎした。
「イヴァン、お前、真っ白だな……」
ギルは僕を見つめて、ほぅ、と溜め息をつく。月明かりの下で、ゆるやかに力を抜く。どうして、そんな大人びた表情をくれるのだろう。
「うん、大人のクマになったから」
僕の体は、あの日からどんどん白くなり、今ではすっかり姉さんのよう、もうどこにも蜜色はない。
そう、あの日この丘で、自分の変化を知ったのだった。静かな自覚に裏づけられるように、僕は自然と大人に成った。
「なぁ、大人ってどんな気分だ?」
「うーんと、毎日すごく眠いなぁ」
「それは前からだろ」
ギルに笑われてしまったが、自分の気持ちはうまく表現できない。変わったといえば変わったし、何も変わっていない気もする。
眠たいような重たいような体と、どこにでも駆けていけそうな心とが、なんとなく釣り合わない。まだあんまり、慣れていないせいかもしれない。
「ギルも、なんていうか……」
「ん?」
きらら、と光がころがる音がしそう。ほんの少し首を傾げただけで、ギルの体はまばゆく光る。ずっと見てると息がつまりそうだ。
「もう、大人、だよね?」
「おぅ、あと少しだと思う」
「あと少しって、どうなったら、ほんとの大人なの?」
「子づくり出来るようになったら、だろ」
「…………ふぅん?」
何でもないことのように言われて、どう返せばいいのか分からなかった。ギルは自分が言ったことの意味を、ちゃんと分かっているのだろうか。
森から、また風が吹く。動物たちの寝息が、葉ずれのなかにざわめいていた。
かすかな生の音を、脈々と受け継ぐ、夜の底。豊かな闇に支えられ、月はひっそりと明るい。こんなに光がひそやかなのは、きっと、秘密を囁くためだ。
どうして、そんなに小さな声なのだろうか、聴こえないように囁くのだろうか。僕は、その秘密が知りたい。
「……お月さま?」
僕は寝そべったまま、お腹の上に手をのせ、目を閉じた。夜空の月を、瞳のなかに閉じこめる。
――あなたは毎晩生まれ変わる。その秘密を、僕は知りたい。
僕の色も変わった、真っ白になったから、きっともう大人だ。だけど、それは僕の意思じゃない。
僕らはみんな、生まれてきたからには、変わらずにいられない。誰かと出会わずにはいられない。僕は今、ようやく何かを分かりかけてきた。それは、ギルに出会えたからだと思う。
「イヴァン……イヴァン、」
「……うん? なぁに」
呼びかける声に、そっと目を開けた。月は相変わらず、夜空の中心に佇んでいる。
「もしかして、今、話してたのか」
「そうだよ、ギルにも分かったの」
「ん、なんとなく……ずるいぞ! なんで、お前だけ」
――ギルは、もうすぐ本当の大人になってしまう。そのとき、彼の隣にいるのは誰なのだろう。彼を変えるのは、誰なのだろう。知りたい、でも、知るのが怖い。
「あれっ、なんだよ急に」
僕はおそるおそる、ギルの体を引き寄せた。そうっと抱いて、頬をぺろりと舐めてみる。
「どうした、また首がかゆいのか?」
「うん……」
「しかたない奴だなぁ」
「背中も……」
「はいはい、これでいいか」
むず痒く、甘ったるい疼きに身をまかせた。大人になったギルの手が、僕の体に触れてくる。僕は心臓をどきどきと鳴らしながら、ギルを抱きしめたまま、不思議な気分を味わっている。
ホウ、と梟の声がして、森の夜に、秘密が満ちた。きっと僕にも、もうすぐ分かる、もうすぐだ。
「……イヴァン、」
「なぁに、今日はなんだか、いっぱい名前を呼んでくれるね」
「……ちがう、そんなことない」
若いウサギの瞳は、きらきら、希望にあふれている。
「君はもうすぐ、君のお父さんみたいになれるんだね」
「そうだな、たぶん」
ギルはもうあまり、お父さんのことを話さなくなった。前は何かにつけ、「オヤジ」と声に出していたのに、だんだん言わなくなった。
きっと忘れたんじゃない。忘れてはいなくて、いつも頭にあったとしても、口に出す必要がなくなったのだと思う。「オヤジみたいな大人になる」といつも言っていたのが、きっと、本当に自信がついてくると、口に出さなくても平気になるのだろう。
「イヴァン、なんでお前は真っ白なんだ?」
「ギルだって、白いよ」
「ちがう、ちがう! 俺は銀色だ!」
「ギンイロ……? ふぅん、そうなんだ」
よく分からないけれど、白ではないらしい。たしかに、白よりもっと輝いている。そうか、ギンイロ、覚えておかなきゃ。
「そうじゃなくて、お前は、お前の家族とおんなじ色か?」
「うん、姉さんと……姉さんの話、したことあったっけ?」
「ない」
「そうかぁ、あのね……」
いつも頭のなかにある、姉さんの姿。毎日、必ず思い出しているから、忘れない。それこそ、口に出すことはないけれど。
「姉さんはね、ハチミツみたいな色が、お日様の下だと白くてね……まるで、ユリの花みたいなんだ」
思い出すそばから、うっとりと頬を染めた。大好きな人の姿を、胸いっぱいに思い浮かべながら。
ギルが、えっ、と声を上げ、腕のなかで身じろぐ。
「その花、見たことあんのかよ……イヴァンのくせに!」
あまりものを知らない僕が、花の名前を出したことに驚いたらしい。実際に百合の花を見たことがあるのか、と訊かれても、それは僕のなかでは、どうでもいいことだ。
「あのね、姉さんはユリの色でね……ユリは姉さんの色なんだ」
答えにはならないだろう、それでも、これは僕だけの大切な思い出だから。思い描いた姿を、ギルに見せてあげることができなくて、とても残念だと思う。
きっと姉さんには、もう二度と会えないから、ギルに会わせてあげることも出来ない。
「そっか」
「うん」
「……、」
突然、ギルが自分から、僕の頬を舐めてくれた。何も言わず、照れもせず、真っ直ぐに慈しんでくれる、熱心な触れ方だ。
なんだか、かっこいい。どうしよう、ギルがかっこよく見える。僕は優しく舐められた頬を、ぽっ、と熱くした。
もっと見惚れていたかったのに、ギルはもぞもぞと移動して、僕のお腹に頭をのせる。
「ギル、ねむたいの?」
「ちがう、もっと月が見たい。……それに、こうすると、あったかいんだろ」
「……そうだね、あったかいんだよ! すごい、よく覚えてたね」
「当然だろ、俺はすごいんだ」
ふふん、と鼻をならして、おなかの上でくつろいでいる。
僕のおなかが、いちばんあったかい。そう言って抱きしめた日のことを、覚えていてくれたんだ。
「……いい夜だな」
「うん、いい夜だね」
姉さんと過ごした日々のように、ギルと過ごすこの時間も、かけがえのない記憶になっていく。きっと、忘れられない思い出になるだろう。だから、怖がるのはやめなきゃ。
ひそやかな月の光、その優しい眼差しをうけて、ふっ、と自然に笑みがこぼれた。森のなか、全ては繋がっていく。
いつか思い出になることを、僕は怖がらない。
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花咲く丘*ざわめく秋(1) につづきます。
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