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◇ 鏡の冬 ◇
○.
あの夜、イヴァンと見た星空は、一晩のうちに落っこちてきた。本当に、一晩で全てが変わるものだ。
朝、目が覚めたら、森はうっすらと白くなっていた。星みたいに細かな雪が降って、まだ積もりはしなかったが、木々の枝は霜におおい尽くされた。
枯れ葉をいちまい拾ってみれば、凍っている。その氷にすら、透明な霜がかかって、きらきらと朝陽を反射していた。
眠らずに、一緒にいようと言ったはずなのに。どうやって巣穴に帰ったのか覚えていない。川原で話したことも、何もかも、全て夢だったような気がして、イヴァンの巣穴を訪れてみたが、案の定もう冬眠に入っていた。
なんだかたくさん勝手なことを言って、勝手に眠りやがって。しかも、この俺に、「おやすみ」の挨拶もなく。
しかし、それももう遠い出来事のようだ。あれから何日経ったのか、数えきれないくらい太陽が昇って、落ちていった。俺はいつからか、数えるのをやめてしまった。
冬があまりにも長いせいだ。光も薄いので、まどろむように毎日を送っている。イヴァンのことを思い出して、腹が立つことはあっても、その怒りが持続しない。
「……朝、だ」
巣穴でひとり、目が覚めて、顔をこすりながらのそのそ這い出す。
積もった雪で、草地はもう、真っ白な雪原に変わっている。巣穴から出るのも、雪を除けながらになるので一苦労だ。こんなことが朝の日課になるとは、冬が来るまで知らなかった。
当たり前のことだが、イヴァンがいなくても朝は来るし、冬になっても腹は減る。
「雪って、こんなに白くてうまそうなのに、なんで味がしないんだ……おまけに冷たいし、ほんと、好きになれないな」
体が温まるまで、太陽の光を浴びなくてはいけないので、活動するまでに時間がかかる。突っ立ったまま、手持無沙汰で、ちょっとだけ雪を食べていた。もう習慣になっていて、これも朝の日課と言えるかもしれない。
両手で雪を丸めて、木の実のような雪玉をつくって、齧りつくのがお決まりだ。どうせ味がしないことは分かっているので、頭のなかで好きな食べ物のことを考える。
今の俺は、さぞかし間抜けに見えるだろう。けれど、辺りには誰もいない。誰も俺を見ていないので、ひとりごとを言うにも躊躇がない。
「おいしいのは白、白はおいしい……」
葉が落ちて、すっかり丸裸になった林の良いところといえば、日光を遮らないところだろうか。
ぼうっと朝陽を浴びながら、自分で呟いた言葉の意味を、思い出そうとした。自然と頭に浮かんできた言葉で、意味なんか、無いといえば無い。
あぁ、思い出した、イヴァンの口癖だ。
イヴァンが言うところの、「おいしい苺に出会うための心得」だ。忘れないようにと、野苺の季節が終わってからも、たまに呟いていた。
何気なく思い出すのか、毛づくろいの時なんかに急に呟くので、俺はいちいち驚いたっけ。怒っても反省するどころか、嬉しそうに繰り返されたせいで、俺まで覚えてしまった。
ひとりぼっちの時間が長すぎたから、という理由で、あいつもひとりごとに無頓着だった。言葉だけでなく、いきなり歌ったり、転がったり、思いがけないことをするから振り回される。
「あいつがいないからって、俺があいつの口癖、言わなくてもいいだろ……」
野苺のことを思い浮かべながら、ちょこっと雪を舐めた。もちろん、苺の味がするわけはなかった。
まさか雪で腹がふくれるはずもないので、食べ物を探しに行かなければ。
蓄えはあるけれど、食べ尽くす訳にはいかないだろう。この森で越す冬は初めてなので、どれぐらい手をつけて良いものなのか、いまいち分からなかった。
冷えきった手から、食べかけの雪玉を離す。手のひらをはらうと、さっきまで粉雪だったそれは、ぼたぼたと下に落ちた。
のっそり、片足を上げる。それを下ろしたら、今度はもう片方の足を。白い地面にゆっくりとついていく足跡は、とても身軽なウサギのものには見えない。
「今までどうやって、冬をのりきったんだっけか……」
足元がおぼつかないので、自然とうつむいてばかりになる。
たまに顔を上げれば、美しい白銀の世界が広がっているけれど、どこまで行っても見知らぬ世界だ。月の森ではないみたいに、綺麗でも、どこかよそよそしい光景が続く。
丘の樅の木を目印に歩いていくが、気が遠くなりそうなほど、遠くに見えた。
「今までの、冬……」
そうだ、冬は巣穴にこもり、家族と身を寄せあって寒さに耐えていた。
今はひとりだけれど、不思議と寒さは苦にならない。静けさの方が体にこたえる。かすかな葉ずれの音すら、しんとした雪が吸いこんでいく。
晴れて良かった、そう思ったそばから、晴れだろうが曇りだろうが変わらない、風景の白さばかりが目についてしまう。
深い雪に閉ざされた世界が、豊かなものに思えた、そんな冬もあった。兄弟でオヤジの膝に座って、語られる小さな昔話に耳をすませていた、幼い頃の思い出だ。
「どんな話、だったっけか……」
は、と両手に息を吹きかけ、さする。自分の手はもう、あの頃とは違う、こんなに大きくなったのに。物語の出だしが思い出せないだけで、無性に不安になる。
「……大丈夫だ、何にも心配いらない! 俺はもう大人だ」
へこたれたら駄目だ、どんなに冷たい風のなかだって、耳を立てるのを忘れるな。俺はふるふると頭を振って、前を向いた。
音のない森を、ひとりで歩いて行く時だって、ぴんと耳を立てていなければ。それがウサギの、俺の誇りであるはず。
道を塞いだ枝をかきわけ、斜面の上に立つ。凍りついて雪をかぶった川が、まるで白い道のように広がり、眼下に横たわっていた。
向こう岸に、幹の折れてしまった木が見える。しめた、俺の歯でも、齧りつけるところがあるかもしれない。
急な斜面に腰が引けそうになるが、俺は負けるもんかと耳を立てて、慎重に川へと下りていった。昨日も通った道だ、今日だって平気だ。
「ほらな、上手くいっ……た?!」
滑って、しこたま腰を打ってしまい、誰もいないのに顔が赤くなる。
最後の最後で、枝を支えに足を進めたのは良いが、頑丈な枝の下には雪が積もっていなかった。そこは雪でも土でもなく、すでに氷の一部だったようだ。
「いッ……てて、」
大事な尻尾が折れたかもしれない。う、と喉をつまらせながら、急いで確かめる。触ると痛みはあるが、おそるおそる尻尾に力をこめると、ひこん、と跳ねる感触があった。
よかった、と息を吐いたものの、安心したら、かえって気が緩んでしまう。涙が目の縁までにじんでくる、嫌だ、絶対に泣きたくない。
「大丈夫、大丈夫だ……っ、……」
ぐずぐず鼻をすすりながら、オヤジ、と、心のなかで呟いていた。どこか冷静な自分が、あっ、と気づく。
誰かを頼る気持ちが、とても恥ずかしいものに思えてならない。氷についた両手を、むやみに、あくせくと動かした。振り払ってしまいたい、否定したかった。
凍った水面がそこにあらわれ、自分の姿が映る。
氷が汚れているのか、涙がくすませるのか。泣くのをこらえた顔はみっともなく、ぼやけていたが、目を反らせない。
「……俺は、何も、変わってなかったのかな」
自慢の耳が、ゆっくりと下へ垂れていく。
相変わらず、金色じゃない、俺だけが違う。どう見ても、どこまでも白い。
「ちがう、この色でいいんだ……イヴァンは、好きだって……だから、いいんだ……」
まばたきを一つしたら、急に涙が引いていき、ぞくりとした。
『本当に? それでいいのか、変わりたかったんじゃないのか』
もうひとりの俺が語りかけてくる。俺の顔をしているくせに、意地が悪い。うるさい、そういうことじゃないんだ。
大人になりたいと願って、俺は大人になれたじゃないか。違うことを引っぱりだすな――なんでもかんでも、ごちゃ混ぜにするな。
頭がぐらついているのは、きっと痛みのせい。そう自分を納得させて立ち上がり、凍った川をよろよろと渡った。
まったく慣れないことばかりとはいえ、こんな調子じゃいけない。ひとりで冬を越すためには、もっと気を引き締めなければ。同じ失敗はしない、もう繰り返すな。かたく決意し、むっと唇を結んだまま、目指していた木と向かい合った。
雪の重みで、幹の太い部分からばっさりと折れている。こんなふうに、雪が役立つこともある。
この木がもしも、もっと太ければ、いや細くても――重みに耐えるか受け流すかして、折れることはなかっただろう。なんだか不思議だ。倒れるべくして、倒れてくれたようにも感じる。
裂けた分かれ目や、地面へと低く垂れた小枝には、もう誰かが齧ったあとが残っていた。こうして生き物たちが利用するから、森に無駄なことなどない。
ぼうっとしながら、俺も木を齧る。なかの柔らかいところを食べさせてもらい、少しだけ元気を取り戻した。
「それにしても……こんなに雪が積もるなんて、聞いてなかったぞ!」
太陽の位置が高くなり、雪面の照り返しも眩しくなった。いくら俺の色が白いといっても、眩しい上に、隠れる場所もない道を歩くのは気が引ける。
俺はすぐに林へ入った。日陰の雪が、ひっそりと俺を迎える。
木漏れ日は緑にそよぐのではなく、枝の隅々まで積もった雪の、白い隙間からそそぐ。
積もるというよりは、まとう、と言った方がいい。裸の木々が枝先にまで、ふんわりとまとわせた白。見上げれば、青い空に、こまかく白い糸が巻きつけられたように見える。
たしかイヴァンの話によると、雪の降ることがあっても、わずかだということだったのに。これはどういうことだ、俺の膝が埋まってるぞ。
あいつは月の森よりも、ずっと北で生まれたらしいから、雪なんて慣れているのだろうか。それにしたって、おかしいだろう。「外でお昼寝できるよ」なんて言っていた、のんきな顔を思い出す。
何を考えてるんだ、昼寝どころか、そのまま永遠の眠りにつきそうだ。それとも今年の冬が、特別に寒さが厳しいだけなのか。
「……聞いて、なかった」
それじゃあ、春がくるのも、遅くなるのか。
日陰を歩いていても、じっとりとした汗をかく。は、と吸いこんだ息が、冷たく肺に突き刺さった。
それは困る。そう思いながら、足を上げる。上手く上がらなくて、雪をかくように歩く。
春が遠ざかって、イヴァンの目覚めが遅くなったら。暗い気持ちになりながら、ほとんど自棄になって、何度か雪を蹴散らした。俺の細い足では、雪のなかにずぶずぶと沈むだけで、浮力が足りない。
冬眠が長引いたら――あいつが、痩せてしまうじゃないか。どうしよう、と、考えても仕方のないことばかり考え、一歩ずつ、一歩ずつ。
無理矢理にでも進めば、普段の何倍か時間がかかったとしても、林を抜けることはできる。森には果てが、道には終わりがある。冬はどこから、どこまで続くのだろう。
小鳥の声がした、山野では冬でも鳥がさえずるのだ。その小さな体の内側に、凍えない熱をもっている鳥達が。
太陽に照らされ、こんもりとした茂みから、雪のかたまりがずり落ちた。ざざ、と心地よい音だった。その茂みは、雪の下でも緑を保っていたようで、すぐに眩しい陽を浴びる。
山野の緑が、冬のなかにあっても、きらきらと輝いている。
「あぁ、」
――また、道を間違えた。
イヴァンの巣穴の前で、俺は途方に暮れた。
どうして俺は、西にいるんだろう。ここに来るつもりじゃなかった、南の樅の木を目指していたのに。近道をするつもりで、通り過ぎてしまったなんて。
なんて、困ったふりをするのは、今日が初めてではない。道を間違えるのも、俺の日課だった。
毎日どうしても、様子を見に来てしまうのだ。
毎日、叱られるのを待つ子どものような、神妙な気持ちで、巣穴にしのびこむ。
「イヴァン……?」
巣穴の前で呼びかけると、ほう、と息が白く染まった。そろそろと穴のなかへ入る。しめったような、かわいたような匂いがしている。
春の野原に、身を隠した時のような心地がした。柔らかくて強い、草原みたいなイヴァンの匂い。
息をしているか、確かめるだけだ。ちゃんと心臓が動いていたら、すぐに出ていくから。
真っ暗闇のなかを、手さぐりで進む。少しも怖くない。
クマの巣穴に、こっそり潜りこむだなんて、もしも群れの仲間に話したらどうなる。俺は英雄みたいに仰がれるか、よっぽどの死にたがりだとバカにされてしまうな。
俺にとっては、安心する暗さだ。暗がりのなかから、ひっそりしたイヴァンの寝息が聞こえてくると、心からほっとする。
奥まで入り、そこでゆっくりと膝をついた。ふわり、膝に、枯れ草の感触がする。
もう触れられそうなほど、すぐ近くで寝息が聞こえる。しかし俺はどきどきしながら、目が慣れるのをじっくり待った。
だんだんと目が慣れてゆき、まるで真っ暗闇のなかで光りだすように、ほわっとした白い体が見えてくる。無造作に積まれた草の上で、大きな体を小さくして、丸まって寝ている。
『イヴァン、』
起こさないようにと、声を出さずに、唇だけで名前を呼んだ。乾いた草に手をついて、身を乗り出しながら。
イヴァンはわずかに胸を上下させながら、くうくうと安らかな寝息をたてている。安らかな寝顔を見て、心底ほっとしたら、俺の尻尾は勝手に震えた。
『イヴァン!』
起こしてはいけない。春になるまで、絶対に起こしたらいけないんだ。ちゃんと分かってる、だから声にはしない。
だけど、言いたい。
俺、お前が息をしてるってだけで、こんなに嬉しいんだ。分かるか、分かるわけないよな、気持ち良さそうに眠りやがって。
あぁ、言いたいな――。
「ん……、」
『ぴっ?!』
横たわっていた体が急に動き、俺は体全体でびくついてしまった。あやうく声を上げそうになったが、我ながらよくこらえたと思う。
起きたわけではない、寝返りを打っただけ。起こさなくて良かったと思う反面、一瞬だけがっかりしてしまったのが、正直なところだ。
せっかく声を我慢して、寝顔を見ていたのに、背を向けられそれも見えなくなってしまう。可愛い寝顔だったのに。
それでも、まぁ、左胸が高くなったのは好都合だ。
まあるい形のイヴァンの肩に、俺はそうっと手をついた。それから体にも、そうっと頬をつけて。最後に、耳を、心臓の上にくっつける。
とくん、とくん。優しい音がしている。長い耳をぺたんと伏せ、ぴったり体に寄り添わせたら、いっぱいに聴こえる。あたたかい音だった。
よかった、イヴァンは今日も生きてた。よかった。
* * *