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明るい外へと出たとたんに、ほろ、とまた白い息が広がり、景色にとけていく。
手に触れたぬくもりが冷めていくのを感じながら、俺は呆けたように歩いていた。
いつも帰り道で「会いに行かなければ良かった」と後悔するのに。やめたいのに、やめられない。いつでも会えることが、せつなかった。会えても、抱きしめることすらできないのに。
今は会わない方がいいんだ、我慢するしかない。仕方のないことだと、頭では分かっている。それでも自分を抑えられないことが、かなしい。
イヴァンの心臓の音を聴くとき、自分の内側からあふれでる鼓動も、ぴたりと重なって響いていた。生きている、という実感がもてたのは、俺の命も同じだ。
それじゃあ、ひとりでいるときの俺は、生きていないのだろうか? そんなバカなことはない。しかし、違う、と言い切る強さが足りないことも、事実だった。
一緒にいると、あたたかくて、どこまでも満たされる。だけどこうして帰り道で、こんなに冷たく、みじめな思いをするのなら、もう会いたくない。そう思っていても、明日も会いに行ってしまうのだろうか。
どうしたら変われるのだろう。
さっきまであんなに晴れていたのに、風が吹きはじめた。風のなかに粉雪が混じっている。空から降りてくるひとひらと、足元から巻き上げられるひとひらとが、目の前で混じりあった。
一度、呼吸が乱れてしまうと、元に戻すことが難しい。はあはあ、胸を上下させて、苦しい道が続く。吐く息がいちいち白くなるのも、なんだか恨めしい。
冬に閉じこめられていく、そんな気がした。景色も単調で、気持ちが塞ぎ、だんだんと身動きが取れなくなっていく。
「……なんか、疲れたな」
積雪を踏みつづけて、じんと痛みはじめた足が気になる。どこか休めるところはないかと、辺りを見回した。
ちょうどよいことに、俺が今歩いているのは丘の斜面だ。平原では膝が埋もれるほど深い積雪も、ここでは浅くなっている。雪は風に乗って、丘の下方へと降るのだろう。
斜面を登っていくと、それほど高くないところで、幹が二又にわかれている木を見つけた、立派な椈の木だ。近づいて確かめれば、太さも申し分ない。地面の雪も薄く、これなら俺の脚で飛び乗れる。
俺は弾みをつけて、強く飛び上がった。枝にぶら下がり、見当をつけていた場所へ、上手いこと腰かける。
ふぅ、とひと息つく。良い場所を見つけた、隣の幹が背もたれになり、肩の力を抜くことができる。
耳の手入れでもしようかと、先っちょに手を伸ばした、その時だ。見晴らしが良いことに、やっと気がついた。
歩いていた時には、振り返ろうともしなかった光景を、今ようやく眺めている。
どんよりと重たい空、雲間からいくつかの筋となって、日の光がきらきらと射し込んでいる。それは限りなく透明で、陽光というよりは、まるで氷の道が、空から森へと続いてるように見えた。
真っ白な森を見つめる瞳に、粉雪のヴェールがかかる。塵よりも小さな雪が舞い、視界を揺らし、あふれさせる。
涙が出ないのが不思議なくらい、綺麗だと思った。これが月の森でなかったら、美しさに震えていたと思う。けれど、眼下に広がっているのは、変わりはてた月の森だ。
何度か季節の変化に立ち会ったが、夏にも、秋にも、こんなことは感じなかった。今までの面影が見つからないことが、どうして気になる、どうして胸が痛むのだろう。
「…………、」
黙りこんで、目を見開いていた。雪をふくんだ風が、俺の前髪をはらはらと散らす。
このまま動かないでいたら、俺の顔にも雪が積もるか。そう考えると、少しおかしかった。睫毛にはもう、雪の結晶がついてそうだ。目の前がほろほろと光っている。
やはりそれほど寒いとは感じない。念入りに冬支度をしたおかげだった。かじかむ足と、川原で打ちつけてしまった尻尾が痛むくらいで、おかしなことに腹も減らない。
手入れをするために、まずは右耳を垂らして、両手でつつんだ。ウサギの耳は熱を調節するところでもあるので、じんわりあたたかい。
俺の耳をにぎって暖がとれるなんて、俺自身しか知らないだろう、誰にも触らせないからな。
毛並みを整えるために何度もさすり、手を往復させる。
塞いでいた気分が、少しずつ落ち着いてくる。そういえば、自分の体を大切にしろと、いつもオヤジに言われていたっけか。体をぴかぴかに磨いていれば、心も健やかでいられるからと。
手をぺろんと舐めてから、ぎゅっぎゅと耳にすりつける。まともなウサギは、直に舐めたりはしないのだ、行儀が悪いから。
ぼうっとして、手入れだけに集中しながら、木の上で足をぶらぶらと揺らした。体もあたたまってきた気がする。尻尾もひこひこと動きだした、機嫌が良いときのウサギの癖だ。
よし、ようやく調子が出てきた。頭はなんだかぼんやりしているが、それは雪景色が眩しいせい、きっとそうだ。
俺は元気だ、と、半ば無理矢理そう思い込もうとしていた。心のどこかでは分かっていたが、それでも元気を出すしかない。まだ冬は続く、冬の間はずっとひとりなのだから。
「……なにか、歌ってみるか」
歌えば、もっと調子が良くなるかも。そう思って、遠くを見つめた。
南の丘で、いちばん背の高い樅の木は、ここからでもよく見える。俺はあの木が好きだから、あれを見ながら歌おう。
すぅっと息を吸いこむ。あまり食べていないせいか、腹に力が入らない。それでもいい。ふ、と唇に歌をのせて、軽く風へと送った。風が樅の木にまで、歌を運んでくれるように。
「……?」
あれ、あぁ、これはクマの歌だ。すっかり最後まで歌い終えてから、完璧に覚えてしまったことに気づく。夏に知ってから、秋までよく一緒に歌った、あの歌だった。
「…………ギルと一緒だと、ほんとに楽しい=c…、」
何度もしきりに首をかしげる。何か、何かがおかしい、俺、どうしたんだ。
「……おれ、どうしちゃたんだ……?」
気づけば、あいつの歌ってくれた歌や、言ってくれた言葉が、口をついて出ていく。ぼんやりして、のろのろ歩いて。なんで、あいつの真似をしているんだ。
――イヴァンがいないからって、俺がイヴァンみたいにならなくてもいいのに。
あっ、と息が止まり、思わず耳を離して、頭を抱えこんだ。イヴァンと過ごした日々のことが、あとからあとから浮かんできてしまった。とまれ、とまれと頭を叩く。
涙は、前触れなく流れおちていた。こらえる暇もなかった。ぐじぐじと目をこする、情けなくて身の置き場がない。木の上に隠れる場所などなく、せめて体を小さく丸める。
ひとりの冬が、こんなに心細いものだとは思わなかった。なんて、ほら、また弱気なことを考えている。
「……ちがう、あいつは弱虫じゃなかった」
あいつのおかげで、弱虫じゃなくなっていたのは、俺の方だ。月の森に来てからずっと、なりたい自分になるために、ずっと、あいつの存在が必要だった。
言葉を教えるのも、オクリモノをするのも、全て半分はあいつのためで、半分は自分のためだった。
誰かの役に立てる自分、必要とされる自分であるために。そんなものが、俺がなりたいものだったか――?
「ちがう……ちがう……!」
顔を覆っていた指と指の隙間から、眩しい光が射し込んだ。
「え……?」
後ろから誰かに呼ばれた気がして、おそるおそる手を開いてみる。顔を傾げて、それを見た。
懐かしい。そう感じる夕焼けが、空の彼方から広がっていた。
なぜだか分からないが、いつか見たことがある、という思いが胸いっぱいに広がる。懐かしくて、あたたかい。
過酷な冬の世界は、山の向こうからひとつひとつ照らされて、白い雪は、見たこともない色に染められていく。俺は幹に手をついて、その光景にしばらく見入った。
立ち並ぶ木々は、どれも氷の花を咲かせている。樹氷の森が、彼方からの夕陽を浴びて、ひとつ、ひとつ、輝いていく。
なんて懐かしい光なのだろう、親しみ深い色に染まった木々は、どれもみんな、自分の家族だという気がした。
森の木々のひとりひとりと、手を繋ぎたい。手を繋いで、どこかへ帰りたい。
――どこへ? きっと、生まれてきたところだ。
「きれいだ……」
さっきまでどうして、この光景を、よそよそしいなんて感じていたのだろう、変わりはててしまった、なんて。
何も変わっていない、ここは月の森だ。俺の住処があるところ、帰る場所だ。
「イヴァン、すごいぞ、綺麗だ……こんなに綺麗なものが見れないなんて、もったいねぇな……俺、クマじゃなくて良かった」
冬眠していなかったら、イヴァンにも見せてやりたかった。そう思っているうち、涙なんか、どこかへ行ってしまった。森をつつんでいる夕暮れを、隅々まで眺めるのに夢中になった。
この光景のことを、いつかイヴァンに話してやれるだろうか。いや、とても言葉では伝えきれない。だって、今、俺の心が震えているのは、俺だけのものだから。
同じ景色を見たって、感じることは違うだろう。それでも、やっぱり、イヴァンと一緒に見たかったと思う。今、隣に居ればよかったのに。
「ひとり、なんだな……俺……」
たった今、気づいた、ひとりなのだと――やっと、本当のひとりだ。
ふっとまた肩の力が抜ける。すると、今まで寒さを感じていなかったのが嘘のように、頬が冷たくなっていくのが分かった。
ここでいじけていたら凍りついてしまう、俺まで木の花になるだけだ。
「丘に、行こう」
何をすればいいのか分からない、けれど止まっているのは嫌だ。できることを探そう、なんでも、やってみればいい。
ずるずると木から降りる。休む場所を与えてくれた椈の木を撫でて、ついでに、冬芽を少しだけ齧らせてもらうことにした。
さくりと歯をたてた冬芽のなかには、春を待つ力がいっぱいに詰まっていた。美味しくて、なによりのご馳走だと思う、ありがたかった。
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