03

 バス停はカフェの前にあり、僕が着いた時、まだ並ぶ人は居なかった。誰も並んでいないので不安になったけれど、貼られた時刻表は真新しかったし、カフェテラスでは夫婦が談笑していて、辺りの雰囲気は悪くない。

 標識へ立てかけるように荷物を置き、ふぅっと一息つく。

「あっ、犬だ!」

 くんくん、と鼻を鳴らしながら、道を歩いている仔犬を見つけた。塀のひと区切りに顔を近づけ、赤い煉瓦の匂いを嗅いでいる。

「おいで、どこから来たの?」

 僕は迷わず駆け寄って、仔犬を抱き上げた。あたたかくて、とくとく脈打っている。今まで素知らぬ風で歩いていたくせに、抱き上げた途端に尻尾を振ってくるのが可笑しい。

 シナモン色の毛並から、太陽の匂いがした。しめった鼻を押しつけられると、どうにも離れがたく感じて、抱いたまま標識のところへ戻る。

「ついてくる? 僕と一緒に行こうよ」

 風は相変わらず冷たいけれど、重い荷物を運ぶうち、僕の手はしっとり汗ばんでいた。仔犬が一生懸命に舐めてくれる、しょっぱくないのだろうか。

 そういえば、南国の海は潮の香りがしない、と最近知った。漠然と海に憧れるばかりだった僕は、海辺でゆっくり深呼吸をしたことも無い。世界にはまだまだ、僕の知らないことがたくさんありそうだ。

 コバルトブルーの海、その透明な香りを想像し、頭のなかに思い浮かべてみる。まだ知らない砂浜を、この子と歩いてみたい。旅の仲間ができたら、どんなに楽しいことだろう。

 しかし、仔犬はトランクを見たとたん、くふっと喉を鳴らして、僕の腕から抜け出した。

「あっ……待って、行かないで!」

 僕のトランクは明るいクリーム色だ。革製だから、生き物みたいで怖かったのだろうか。この子が横に並べば、きっと素敵だと思ったのに。

「なぁんだ、君たちの犬なのか」

 逃げだした仔犬は道路を渡り、夫婦の足元にじゃれついた。カフェで談笑していた人達だ。彼らは飲み終わったカップを卓上に置き、さぁ行こうかと、仔犬に紐をつける。
 感じのいい笑顔で会釈され、僕も彼らに手を振る。

「ふふ、犬も逃げだすよね」

 トランクを撫でながら、言った。

 あてのない旅なんて、僕だって不安なのに。帰る家があるなら、尚更だ。

 彼らが行ってしまうと、煙を吹かすようなエンジン音が聞こえ、待っていたバスが到着した。乗り込んだ僕は、後ろ髪を引かれるような気持ちで、車窓から通りを振り返る。

 彼らは角を曲がっていく。まずは夫婦の姿が消え、後からついていく仔犬も、すぐに見えなくなった。