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 ◇ おなかが空いたらジャムを食べればいいというお話 ◇


 西日の激しさが佳境をこえて、あたりは薄暗くなりはじめた。
 首都の郊外に建つ大きな館は、敷地の内外に木々が鬱蒼と生い茂っている。立派なのはその広さくらいだ。元は貴族の邸宅らしく、壊れかけた門から石造の母屋まではそれなりの距離があり、庭には手入れを放棄されたものたちが点在していた。

 ところどころガラスの割れた温室や、水錆の浮いた池、どれも落ちぶれてもの悲しい。蔦が垂れ下がるパヴィリオンなどはいかにも陰惨な雰囲気を放っていて、ベンチも朽ちてしまい、かつてそこで人々がくつろいだ時代のことなど、夢のように思わせた。
 水の枯れた噴水、モニュメントの天使が見せる荘厳な顔つきは、この庭のなかでもかろうじて、栄えた日の面影を残している。その脇を通りすぎた頃、夕日が完全に見えなくなった。残り火のような薄明るい空を、水面ではなく、乾いた石が反射させている。

 俺はなぜか、この庭が嫌いになれなかった。いつからロシアと、その家族(ロシアはそう信じている)が住みついているのかは知らない。今こうして、見捨てられたものたちが伝えてくるわびしさは、華美な宮殿よりもはるかに心惹かれるものがある。それは俺自身が、敗者の心を持っているためかもしれない。
 この同居は不本意だった。「望んで此処にいるのではない」という俺の気持ちのなかに、さびれた庭の光景が、すっと入り込んでくる。叫びだしたくなるような気持ちは、庭を目にするうちに静まり、崩壊を待つだけの穏やかさに、ゆっくりと重なった。

「……どこだよ、どこにもいねぇ」

 そんな庭を、俺はロシアを探して駆けまわっていた。暮れかけて曖昧ににじむ木漏れ日を踏みながら、無心に探しつづけていたが、もうすぐ敷地内をひと周りしてしまう。

 早く見つけたい、額に汗が浮かんでくる。しかし、焦ってしまったらいけない。ひと気のないさみしい庭に、かすかにただよう甘い香り、これを見失ってはいけないのだ。
 それは風にさらわれてしまいそうなほど、淡く、それでいて心を奪われる香りだ。繊細でやわらかな甘みを感じる。まるでこの世界の全ての花が、蕾をひらくその瞬間を、一つに集めたような。

「おい、ロシア! どこだ!」

 何度呼びかけても返事はなかった。速度を落として、慎重に、道しるべの香りを辿ろうとする。胸がどきどきしてしまい、深く息を吸いこめない。

 その時、まだ夜になりきらない空に、薄青い月がのぼっているのを見つけた。鼻先をかすめる花の香りが、濃くなったように感じる。そうだ、この緑の奥からだ。
 そのまま導かれるように、道なき道を、背の高い生垣をかきわけていった。ざわざわ囁く茂みの枝に、何度か体をひっかかれても、痛みは感じない。香りはますます強くなるようだ。

 突然、目の前がひらけて、広葉樹の林に出た。一箇所だけ、ぽっかりと隙間があいて、ふかふかとした芝生の地面を、常緑の木々がまるくかこんでいる。そこでやっと探し人をみつけた。その大きな背を木の幹にあずけ、草の上に座っている。あぁ、やっとみつけた。

「あ、」
「ロシア……ひとりで食っただろ!」

 あちらの方でも俺を見つけて、ふわりと笑う。
 俺は思わず駆けよって、考えなしに、その首に抱きついていた。柔らかく明るい髪に頬ずりをして、自分の肩にうずめる。ひどい、ひどいと責めるかわりに。

 いきなり膝にとびのった俺を、ロシアは少しもたじろぐことなく、当然のように受けとめた。俺の背を抱き、かるく頬へくちづけてくるのは、普段の挨拶と何も変わらない。俺は唇の感触を、マフラーのぬくもりとともに、しっかりと肌でたしかめた。まぎれもなく、ロシアだ。

「君を待ちきれなくて。よくここを見つけたね」
「お前の仕事をやってきたんだろ、待ってろよ、ばか。 ……全部たいらげたのか?」
「ううん、ここ」

 傍らに置かれた籠のなかから、小さな瓶がとりだされた。よかった、まだ半分以上が残っている。
 わずかに手がかたむいただけで、瓶のなかでこっくりと、半透明のなかみが揺れた。木陰であるにも関わらず、ひとりでに光りだしそうだ。

「あぁ、うまそう……」
「うん、おいしいよ」

 瓶はなんの変哲もないガラスで、見えているのはなかみの色だ。言葉にあらわせない不思議な色をしている。輝きは琥珀のようだが、ほんのりと赤みがかり、それは人の頬にさす自然な赤に似ていた。透けそうで透けないのは、なかに無数の花びらが、散りぢりの剥片がまざっているからだ。花びらごと、瓶にぎゅっと凝縮された薔薇の色が、とろとろと艶めいている。

「すぐに分かった……香りが、したから……甘くて……」

 魅惑的なその色に、目が釘付けになり、はっきりとした口がきけなくなってくる。

「それで、気づいたら……俺、おれさ……」

 ぼうっとうわごとを言う俺に、無言の微笑みを見せて、ロシアは蓋に手をかけた。瓶が開いた瞬間、なんともいえない香りがただよう。ここまで追いかけてきた、あの甘い香りだ。
 いよいよ俺の意識はあやうくなり、膝のうえで、ロシアの広い肩にしがみつく。

「どうぞ」

 きらきらと輝く、花びらをうかべたジャムが、目の前に差し出された。スプーン等はついていない、俺は黙って首を振る。

「これ、大好きでしょう。プロイセンくんのために、ちゃんと残しておいたんだよ……うれしい?」
「おれ……それ、お前の、ロシアの……指、が……」
「どうしたの」

 幼い子どもに対するような、優しい口調だった。胸がはりさけそうだ。花の香りに支配されていると、なんでも言える気になって、思ったことがそのまま、ぽろぽろと口からこぼれていく。

「……ほしい……イヴァン……お前の指で食わなきゃ、美味くないんだ……だから……」
「……そうなんだ」

 知らなかったと呟いて、なんでもないことのように、ひとさし指を瓶のなかにいれてくれた。白い指にすくわれて、半透明のなかみが、薔薇のジャムがでてくる。
 この時をずっと待ち望んでいた、頭で思う以上に、心が求めていたのだと知る。ジャムの赤みに、指の白さが透けて見え、この上なく綺麗だ。

「どうぞ」
「……ん」

 さしだされた指を見つめて、口に含む前から、その味をいっぱいに思い浮かべてしまう。
 まともな意識は全て頭からけしとび、俺はただ恍惚としながら、ゆっくりと顔を近づけ、そして――

* * *