* * *
あの不思議なジャムを初めて口にしたのは、今から一月ほど前のことだ。その日、俺はロシアと二人きりで庭に出ていた。おそらく、お茶の時間に無理やり連れ出されたのだと思う。
少しずつ分かってきたのだが、午後のお茶に誰かをつきあわせる、それはあいつの習慣であるらしい。晴れていれば外で、雨の日であれば食堂で。誰を呼びだすか、それはまったくの気まぐれだ。もしかしたら家族全員を同席させたいのかもしれないが、そうするわけにはいかないだろう。誰もが大量の仕事をかかえている(この家にはいつだって問題が山積みなのだ)、だから誰か一人だけを呼びつけ、小一時間ほどのティータイムを過ごす。
「プロイセンくん、お菓子とって」
「どれだよ」
「いちばん美味しそうなやつ」
「知るか! そもそも量が多すぎるんだよ、無駄づかいすんな」
ティーセットをそろえた小綺麗なトレイ、これを運んできたのはメイド達だが、ガーデンテーブルを運んだのは俺だ。天板は大理石風の石で、足は鋼鉄で出来ている、しゃれたデザインではあるがかなり重い。
ロシアは何も持たずに庭をぶらぶら歩いて、適当に場所を決めただけだ。自分の仕事を終えたメイド達は、命じられるまでもなく、さっさと屋敷へ戻っていった。慣れているのだろう。
「お茶のおかわりもほしいなぁ」
「……俺の話、聞いてないだろ。このやろう」
ふふ、と悪戯っぽく笑う顔に、怒る気も失せる。言われたとおりに適当な菓子をとりわけ、温かい紅茶をカップにそそいでやった。
ひとくち飲んで、満足そうに息をつく、なんとものどかだ。のどかなのはロシアの表情ばかりでなく、その後ろに広がっている景色もそうだった。
俺たちは朽ちかけた温室のすぐ前にいた。空は曇っているものの、明るい光がふりそそぎ、温室の古びたガラスも輝かせている。割れた窓が目立つ、あちらこちらから伸びすぎた枝がつきだし、それがあまりにも野性的で、微笑ましいくらいだ。
なかの様子は荒れはてて、庭師が見たら卒倒するのではないかと思う。しかし俺は庭師ではないし、野放図に伸びた植物たちを、不快には感じない。整えられていない、ありのままの枝ぶりは、荒々しくも美しい。それをのどか≠ニ感じてしまうことが、少しだけ奇妙な感覚だった。
「いいお天気だねぇ」
「そうか? 曇ってるぞ」
「君とこうしてお茶が飲めるんだもの、いいお天気≠セよ」
「……もしかして、いい日≠セって言いたいのか」
「そうそう、そういうこと!」
分かってくれてありがとう、と、屈託なく笑う。俺はいらいらして、懐から煙草をとりだした。こいつにつきあっていると疲れる。けれど心の底で、愉快だと思っているのも確かだ。
ロシアは菓子の包み紙を開けることができずに、あっちをもったり、こっちにひっくり返したりして、実に見ごたえのある茶番を繰り広げている。俺はそんなばかげた行動をすぐにやめさせて、包み紙をやぶってやりたくなる。こんな不器用さを見せつけられていては、気がおかしくなりそうだ。
けれど俺はそうしなかったし、でかい手がちまちま動くのを、どこかで面白がってもいた。ひょっとしたら、俺に助けを求めるかもしれないと、それを待ってしまう。きっとそうだ、すぐに言うぞ。
「あのね、プロイセンくん……」
「なんだよ」
「きっと何かワケがあると思うんだよ、うん、このお菓子さ、ちょっと……イジワルに作られてるみたいで……」
「へぇ」
にやにや浮かんできそうになる笑いをこらえながら、ロシアの言葉を待つ。早く言えよ、まったくいらいらする。
「プロイセンくんなら、たぶん、上手にあけられるって、そう思うんだ……」
「だから?」
「あの……あけてくれない?」
恥ずかしそうに言った顔に、思わず吹きだしてしまい、くゆらせていた煙がはねた。俺は煙草を指に挟んだまま、袋を楽々とやぶり、くつくつ笑いながらつき返してやる。
受け取ったロシアは、胡桃を焼きかためた菓子を、ぽきんと折る。そうして半分を俺によこした、どうやらお礼らしい。
愉快だ、しかし本当に苛ついてもいる。矛盾するようだが、どちらも俺の心に存在する、はっきりとした感情だった。いつもこうして、自分が二つに割れてしまうから、あまり一緒にいたくない、疲れてしまう。
願うまでもなく、遠くない未来、こいつとは離れられるだろう。こんな同居生活が長くは続かないであろうことは、分かりきった事実だ。
俺はなんとしても帰らなければいけないし、こいつの穏やかさは見せかけで、実際はかなり危ういのだと知っている。きちがいな茶会も永遠には続かない、もうすぐ終わるはずだ。自分まで気が狂わないよう、せいぜい気をつけなくては。
「あ……温室のなかに入ろうか」
「は? 急になんだよ」
「雨が降るよ」
言うが早いか、トレイを持って歩きだす。さっさと行ってしまうので、俺は文句も言えずに煙草を揉みけし、また重いテーブルを運ばなければいけなかった。
気まぐれかと思いきや、みるみるうちに雲が重くたちこめてきて、あいつが言ったとおりになる。
「……げ、本当に降ってきやがった」
はじめはぽつぽつと、小さかった雨粒は、次第に大きくなっていった。なんとか椅子も運びいれたところで、さあさあと音をたてる雨脚になる。空の明るさは消えきっていない、おそらくすぐに止むだろう。それにしても、変に勘がするどい。
「おい、どこいった?」
紅茶のポットからは、まだ湯気がたっている。トレイだけが置いてあって、姿はない。俺が椅子を運ぶため、何度か往復する間に、どこかに消えてしまった。
「あー、面倒くせぇ……」
鬱蒼とした緑を見上げた。温室は、表から見てもすごかったが、なかに入ると圧倒される。いっせいに酸素をはきだす緑の息吹は、毒気に近いものがあり、それでもたしかに清らかだった。当然、壊れた屋根からは雨がもって、したたる水のきらめきにも、目眩をおこしそうになる。
「ロシア? 隠れんぼはやめろよ」
いくら緑が生い茂っているとはいえ、身を隠すような場所はないはず。そう思いながらあたりを見回したところ、階段があることに気がついた。名前も分からない熱帯植物の影に、人ひとりがやっと通れるくらいの、螺旋状の階段が隠れている。
通路へはびこる蔓を慎重に避けながら、近づき、それを眺めた。どこへ続いているのか。螺旋階段の下から見上げれば、高い天井にぶち当たる前に、壁に沿うように造られた回廊があり、そこに登れることが分かる。その回廊もほとんどが蔦や葉におおわれ、全貌は見えない。上から植物を眺めようという趣向なのだろうか、それとも伸びた枝を世話するためか。
怖気づいたわけではないが、上がるためには、ちょっとした覚悟が必要だった。最初の一歩は自然と息がとまる。しかし、一段ずつステップを踏んでいくうちに、気持ちは変わり、胸が高鳴っていくのを感じた。一歩ずつ、段を上るごとに、呼吸がさえていく。いったいこの上には何があるのか、待ち遠しいような期待が心を占めて、段を上りきる。
「すげぇ……」
回廊から見下ろした温室内部は、植物たちがひしめきあっていた。思い思いに、好き勝手に、それでも全てが光を目指している。むせかえるような香りがつきあげ、生きていると知らせてきて、なんだか胸を打つものがある。
つい光景に見入っていた、そのとき、何かが割れる音がした。
「……ロシア?」
音のした方を見れば、これもやはり植物におおわれて分かりにくいが、回廊のゆくてには小部屋があるらしい。管理室か何かだろう。俺は軋む床に気をつけながら(床というよりは、鉄製の柵を横倒しにしたようなもので、下が見えているばかりか、いたるところから緑がつきだしている)、回廊の奥へとさらに進んだ。
ガラスの扉はすんなりと開き、室内を見て、あっと息を飲む。そこはたしかに管理室らしく、よく見れば温度計や、機械の操作盤らしい箱があるが、俺をあっと言わせたのはそんな物ではない。部屋全体を、壁まで余すことなく埋め尽くしている、雑多な品々。なんと表現すればいいだろう、がらくたも宝物も、ごちゃ混ぜになった玩具箱だろうか。
「……いや、魔術師の実験室みたいだな」
「素敵なたとえだね」
「まぁ、俺様いちおう、メルヘンの国だから」
ロシアは部屋のなか、ひとりで佇んでいた。足元には割れた植木鉢があり、聞こえた物音の見当がつく。
小さな部屋の奥行は、机が二つ、ぴったりと並べられただけで埋まってしまう。反対側はいちめんのガラス窓で、温室内を見渡せるようになっていた。
雑多な品々とは、いったいどんな物かといえば、額縁にいれられた写真や絵、突き立てられたナイフ、ジュラルミンのロケット模型、真紅の押し花、木彫りのお守り、蛇口のついた水道管(信じたくないが何本もある)……上げているとキリがない、机側の壁には、そんな物がところ狭しと飾られたり、吊り下げられているのだった。
「お前か、こんなに散らかしたのは」
「……ここはね、ぼくの秘密基地だよ。来てくれたのは君が初めてだな」
机の上はもっと散々なありさまで、几帳面な俺にとっては見るに堪えない。開かれたまま染みがついた本、彫刻刀と木屑、そこらじゅうに散らばった琥珀や貝殻……もしかして、皿に盛られているのはヒマワリの種だろうか。いったいどうして誰かひとりでも、今までこいつに『掃除』というものを教えてやらなかったのだろう。
「この引き出しに、お菓子を隠したはずなんだけどね、開かないんだ」
「でかい図体して、リスみたいなことするなって……ん?」
ブーツの先が、何か硬いものにあたった。ころころと転がったものを拾いあげてみると、それはあの有名な、熊だか猿だか不明なキャラクターだった。大人の指ほどの人形で、木製のようだが、絵の具の塗り方はなんとも拙い。既製品ではなく、素人の細工だろうとすぐに分かる。
机の上をよく見れば、片隅に、人形の家や車が並んでいて、あの孤独なワニのキャラクターが、テラスの椅子でお茶をしている。俺はその隣に、今拾いあげたやつも座らせてやった。
「う〜ん、なかで何かが引っかかってるのかな……」
こいつ、こんなところで、いつも一人で過ごしているのか。ぶちまけられた品々は、俺からすれば全てガラクタだが、こいつにとっては大事なものなのだろう。なんとも、らしい気がしてくる。しかしそうだとすると、こんな小さな部屋におさまってしまうことが意外だった。もっとたちの悪い欲しがり屋だと思っていたからだ。宮殿の大広間くらいは、がらくたで埋めてしまいそうだと。
ロシアは抽斗を開けようと、がたがた音をさせながら奮闘している。
雨は降りつづいているらしく、夏の草いきれのような、むせかえる湿度を感じた。きっちりマフラーを巻いた姿を見ていると、こちらが暑くてたまらない。自分の首元に手を伸ばして、シャツの釦を一つ外す。
なぜ雨音がしないのだろう。密集した葉は、音まで吸いこんでしまうのか。窓から温室へ目をやるが、くすんだガラスの向こうは鮮明さを失っていた。先ほどはあんなに、生きていると、その力強さを伝えてきた緑も、時が止まってしまったように、ぼやけている。
種を植えた人間はもういないのに、芽をだして、光を求めて背を伸ばす。いつか誰からも忘れられたら、ここの木々はどうなってしまうのだろう。この建物が完全に朽ちてしまったら、陽のもとで枯れるだろうか、それとも、雪のしたで凍るだろうか。いずれにせよ、いつかは土にかえる日が来る。
はっとした。そうか、ここには、消えゆく運命のものしかないのか。植物だけでなく、この部屋も、ロシアのこどもじみた宝物も、何もかも。もう長くはないことを知っていて、小さな部屋に閉じこめたのかもしれない。そんなまさか、と、思いながら、もう一度、部屋のなかを見まわしてみる。
どうしても捨てられないものを、いつか自然に朽ちていくように、わざとこんな場所に集めた。そうとしか見えなくなった。ここにはガラクタしかない。たとえ個人的な思い出や、愛着がこもっていたとしても、他人にとっては価値のないものばかりだ。言い換えれば、人任せにはできない物でもある。
「……駄目だろ、ちゃんと、捨てていかねぇと」
もちろん俺にだって、大事なものはあるし、思い出もある。変化を迫られるたび(たとえ意に沿わないものであったとしても)、個人的な感傷は捨ててきた、忘れてきたつもりだ。一つ二つだけを手に持って、あとは日記の記述にだけ、大切に留めておく。そうしなければ順応していけないだろう。
いつか消えてもいいのなら、今すぐに捨てればいいんだ。こんな寂しい場所に、閉じこめたりせずに。
「いいじゃない、一つくらい秘密の部屋があったって。散らかしてたらダメ?」
「だめ、っていうか、」
こんな方法はあまりにも不器用すぎる、と、そう言ってやりたかった。それなのに、次の言葉を聞いたら、言えなくなってしまう。
「好きなものを、ずっと好きでいたらいけないの?」
「……そういうことを言ってるんじゃ、」
言葉に詰まり、気づけば、じっと見つめていた。臆することのない瞳は、俺の考えなど何も分かってはいないのだろう、楽しそうに見つめかえしてくる。どうして、そんなに真っ直ぐな目ができるんだ。
悲しいような、腹立たしいような、複雑な気分だ。なぜ俺の胸が震えなきゃいけない。いたたまれない。
「……どけよ、俺もやってみるから」
「あ、うん」
「ん? おい、普通に開くぞ」
ロシアがあんなに手こずっていた抽斗は、真鍮の取手を軽く手にしただけで、いとも簡単に開いた。すぐに底板がのぞく、なかには何も入っていない。いや、奥で何かが転がった。深い抽斗の奥に手をいれてみれば、小瓶が一つだけ入っていた。
「……なんだ、これ」
「ジャム、みたいだね」
「それは見れば分かるけどよ、ふざけてるだろ、このラベル」
手のなかに隠せそうなほど小さい瓶に、古紙が貼られている。手渡してやると、ロシアも興味深そうにそれを眺めた。
「へぇ、Eat Me≠セって、なんの味か分からないね」
「お前がここに隠したんだろ?」
「うーん、でも、見覚えがないんだよ」
どんな理由があって、こんな冗談めいた文句を書くのだろう。その他に情報はなく、店名も何も書かれていないから、商品ではないのかもしれない。それにしても、部屋の主が知らないというのは、おかしな話だ。
「古そうな瓶だな、隠したことも忘れたんだろ」
「どうかなぁ、食べてみれば思い出すかも。……ん、かたいなこの蓋、あかないや」
「食うのはやめとけって、腹こわすぞ」
「よい、しょ! あいたよ」
「……お前は本当に俺の話を聞かねぇな」
蓋のとられた瞬間、しめっぽい部屋に、風がとおった気がした。そんなことある訳もない、くすんだ窓はそのままだ。
「これ、薔薇のジャムだ、いい香りだね」
「薔薇、の……」
たしかに花の香りだった。それも香水などとは違い、花園を満たすような、自然な瑞々しさがある。感じた違和感の正体を探れば、それは春が訪れる瞬間の、ざわつく風に似ていたのかもしれない。おのずと眉根が寄った、なんとなく予感めいている。
「おい、食うな」
「……まさか、僕が大きくなるかもって思ってる?」
「は、もし小さくなったら、すぐにぷちっと潰すけどな」
「楽しいだろうなぁ、小さくなれたら」
俺も楽しいだろうと思う、お前が小さくなったら、その体を突っつきまわしてやりたい。いや、そんなことはどうでもいい。
なんだろうこの香りは、心の底からふつふつと、懐かしいような、苦々しいような思いが沸きあがってくる。おそれと、よろこびとが入り混じったような、じっとしていられない思いだ。
混乱しかけた頭を振る。よくよく考えれば心配は無用だ、そもそもここには、スプーンも何もないじゃないか。
「とにかく、食べてみるね」
「へっ、あ……!」
すっとんきょうな声を上げてしまった。まさか、瓶に指を突っこむとは。もう俺が何かを言う暇もなく、ロシアは自分の指をくわえ、ぱぁっと顔をほころばせた。とたんに頬が薔薇色に上気する、その変化のあまりにあざやかだったせいで、俺は間の抜けたまま口を閉じられない。
「おいしい! 頬っぺたが落ちそう、本当にこう思うことってあるんだ、こんなにおいしいもの初めて食べた」
「そ、んな、おおげさな」
「本当に本当なんだよ、お願い、プロイセンくんも食べてみて」
そんなに美味いなら一人で食べればいい、俺にまで勧めなくても。世界で一番幸せだと言わんばかりの笑顔で、ロシアが指を差し出してくる。指、だ。スプーンに見えるはずもない。
にこにこと指を差し出す行為に、ひとかけらの迷いもない様子だった。頭のおかしなやつだと知ってはいたが、さすがに正気じゃない。このジャムのせいだろうか、やはり妙な気がする。
「……そんなに、うまいのか」
「うん!」
どきっとするような色が、白い指先にのっていた。苺のジャムに見られるような、ぺったりとした赤ではない。一瞬は金色のようにも感じる、深いきらめきのなかをよく見つめると、次第に透けてくる赤み。謎めいた色に、ひきよせられる。
食べたらいけない。そわりと背筋に走った何かが、足元まで駆け抜けた。かと思えば、体中をぐるぐる巡る。目眩だ。息は上がり、周りが見えなくなっていく。
次に意識が香りに向かった時、いよいよ、落ちたと思った。甘い誘いに、じわじわと判断を奪われて、それが心地いい。もう、あらがえない。差し出された手に、ゆっくりと自分の手を添えた。あたたかさが内側まで伝わってくる。どきどきしながら、とうとう指を食んだ。
「……ね、おいしいでしょ」
「なんだこれ、うまい」
生花のような香りがあっても、舌のうえでは青さを感じない。果実よりも澄んだ甘さが広がり、鼻腔をくすぐるように通りぬけていく。肺の裏までさわやかに、うっとりと甘く染まった。一口だけで病みつきになり、またすぐに味わいたくなる。
ロシアがもう一度、とぷんと指をひたした時には、まだ残っている理性をどこかで感じられた。何かを言うべきだ、行儀がわるいとか、もう止めろとか。
けれど、無邪気に指を舐める姿に、心臓がはねた。なんて幸せそうに微笑むのだろう。美味しそうに自分の指を舐めるその表情が、胸にツキンと刺さる、最後の理性を溶かす。
「もっと、たべる?」
「……ン、もっと、よこせ」
このジャムには、確かに、なにかしら魔法の力がはたらいている。だってそうじゃなかったら、ロシアの指を口にふくむなんて、考えられない。おなじ指から、あの甘さをもっと知りたいなんて。
腕をぎゅうっと掴んでいた。それは甘えるような、ねだるような仕草だ。もっと食べたい、それしか考えられない。
「はやく、ロシア、俺にも」
指をのせる瞬間、舌がふわふわと動くのを見て、こくんと喉がなった。うらやましい。俺も欲しい、お前と同じがいい。
与えられる指を、今度は迷いなく口に入れた。とろみのあるジャムが、体のなかへ溶けていく。その感覚に集中すると、胸の奥がぽかぽかとあたたかい。
自然と唇に笑みが浮かんできて、見ればロシアも笑っている。その笑顔は、俺を有頂天にさせた。ずっと離れ離れだった相手と再会したような、勘違いからこじれた関係が、誤解がとけて打ち解けたような。よろこびが、足元から突き抜ける。
「甘いね、しあわせ」
「……おれ、いま」
「ん?」
「俺が、今、そう言おうと思ってたのに」
「ふふ、そうなんだ」
「先に言うなよ、ばか」
ふざけながら、腕にすがって甘さを味わう。意味もなく、くすくす笑って、終いには指まで噛んでやった。
しかし至福の時間はいつまでも続かない。二人でかわるがわる、すくっては舐めてを繰り返すと、小瓶はあっという間に空になる。
「もう無くなっちゃった」
「……もっと」
「そんなこと言われても」
空の瓶をうらめしく見つめた。見つめたところで、ジャムが現れるはずもなく、ガラスの底だけがてかてかと反射する。
どうしてか、幸福感が体にしっかり刻みつけられると、次には寒々とした空腹感におそわれた。瓶ではなく、自分自身が空っぽになったのかと錯覚する、そんなはずはない。うつろな頭で、瓶をひったくろうとすると、慌てたロシアは、それを遠ざけた。
「本当にもう無いんだよ、おしまい!」
「……なんでだよ。もっと隠してないのか?」
「し、知らないよ……これは、僕が隠したんじゃ……」
「うそだ。なぁ、腹へった、もっと食いたい」
「そんなに言うなら、探していいよ」
あぁ、あのジャムがもっと食べたい。それだけを考えながら、大きな体をぺたぺたと触った。あとから思い返せば、部屋のなかを探せばよかったのだ、違う抽斗でも何でも、全てひっくり返せばよかった。その時の俺にまともな思考はなく、ロシアが着ている長いコートをさぐり、無いと分かれば、コートのなかへと手をすべらせた。
「ちょ、ちょっと」
「なんだよ、探せって言ったくせに」
俺の勢いが強すぎて、だんだんずり下がっていく体を追ううち、二人でその場に座りこむ。構わず、ポケットというポケットをさぐった。瓶はない。ハンカチや、どこかの鍵、関係ないものを無造作に放り捨てながら、腹にも背中にも手を這わせる。だが、肝心のジャムは影も形もなかった。
ついに全てのポケットが空になっても、なかなか受け入れられず、悔しいため息がこぼれてしまう。いつの間にか、俺はロシアの体の上へと乗りあげていた。膝にまたがったまま、力を抜いてうなだれる。それまで圧倒されたように静かだった、大きな手が、おずおずと頭を撫でてきた。
「……そんな顔しないで、ごめんね、もう持ってなくて」
「……う、」
気の毒そうな声をかけられて、ますます悲しい気持ちになってきた。どうすればいいのか途方に暮れて、目の前にあった肩へと寄りかかる。
こてん、と預けた頭を、とぎれなく撫でてくる手は優しい。同情するような調子で、笑ってもいる。なにが可笑しいのだろう、俺はこんなに悲しいのに。
「君って、おなかが空いたら、そんなに可愛い顔をするんだね」
「……そうか?」
「こどもみたい、可愛い」
ちら、と視線をやれば、下がった眉尻は困りきっていて、けれど唇は「かわいい」と囁いてくる。あずけたあたまを、こてん、と反対側に傾け、そのままぐりぐり擦りつけてやった。
「ふん……お前は四六時中、可愛いけどな、イヴァン」
「えっ、な、名前」
「あれ……わりぃ、勝手に呼んでた」
思ったことをそのまま、素直に口にしたかっただけだ。そうしたら、人としての名前が、ぽろっと転がった。自分でも驚いたが、ロシアは見開いた目をきらきらと揺らがせている。撫でていた手はぴたりと止まって、瞳の光だけが動いていた。違う、目が潤んでいくから、そんなふうに見えた。
「はは、どうした、なんだその反応」
「う、あ、なんか……恥ずかしい、のかな? 自分でも、わからないや」
「……お前も呼べよ」
涙は零れおちてこない、宝石のような紫を、ただ光らせていた。目が離せない。ロシアは、こくん、と息をのみ、次の言葉をのせる前に、その唇をふわっとほころばせる。涙と驚きとが、化学反応を起こし、恥じらいが急に、不敵な笑みへと変わる。
「……ふふ、ギルベルトくん。はらぺこなの?」
それを見て、あぁ好きなのだと思った。惹かれることに理由はいらないのだと、脈絡もなくそう考えた。
自覚のないまま魅せられていたとしても、なにも不思議じゃない。恋に落ちたわけじゃない、ずっとそうだったことに、今やっと気づいただけだ。たぶん、ずっと前から、好きだった。
「もっと食べたい?」
「くいてぇ、いっぱい」
「ちょっと残ってるかもしれない、どうかな、食べてみる?」
「ん、たべる」
唇をあわせ、離す、また触れあう。舌のうえに、薔薇の残り香を探す。繰り返すうち、しんみりと感覚が透けていく。さみしい水の音がきこえてきた。
雨は、今、草葉の影へとしたたり落ちて、つゆは静寂にひそんでいる。部屋全体に深い静けさが満ちたせいで、今更のように、雨音が浮かんできたのだった。沈黙と水滴が、さみしさの裏に隠れているものを、そっと悟らせる。
「……ン」
「甘いね、おいしい」
「あぁ、ほんとだ」
誰も知らない部屋で、朽ちていくのを待つ間に、この世のしがらみは削ぎ落とされて、夢だけが残った。あまりにも純粋で、脆い夢をとおして、確かな素顔に触れた気がする。
捨てられないガラクタや、いつか言うべきサヨナラに、ふと光をあてれば、甘い香りがただよう。誘われるまま、素直になってもいいのだろうか。でも、切なすぎる。今、お前と唇を重ねて何になるんだ。こんなにも静かだ。
舌に残った甘さを分けあえば、やっぱりそれは嬉しかった。お前もそう思ったのだろうか。ふたり、おなじような笑みを浮かべていた。おそらく雨は、じきにやむ。
* * *