02
「……あ、」
 ぱしゃんと跳ねた水たまりが、ズボンの裾を汚した。昨日は二人で飛び越えた水たまりに、灰色の空が映っている、しょんぼりした僕の顔も。ひらひらと菩提樹の葉が落ちてきて、くすんだ水色に乾いた枯葉色が重なった。
 ……どうしよう、人のお家に行くのに、濡れたズボンでも大丈夫だろうか。着替えたくても、今から引き返す時間はないし、あぁどうしよう。
「どうしよう、ギルベルト! ……あっ」
 そうだ、今日は一人なのだった。
 ギルがいたら、「またイヴァンのドウシヨウが始まった!」 と笑われてしまいそうだ。でも、ギルはいない。
 バイルシュミットは休みだ、風邪をひいたらしい、と、朝の時間に先生が言った。この秋は冷え込むそうだ、雨に降られたらよく体を拭きなさい。そんな注意も付け足しながら。
 ギルベルトの家に、僕は今からお見舞いに行くところだ。
「風邪をひいてるなんて……昨日はちっとも気づかなかったな」
 初めてできた僕の友達、ギルと夢中で遊んでいるうちに、季節はいつの間にか秋になっていた。もう通い慣れた通学路を、今日はひとりで歩いていく。
 昨日は雨が降っていて、まずギルが一人で水たまりを飛び越えた。僕も真似してそれに続き、二人でいくつもの水たまりを飛び越え、その数を競ったんだ。とても楽しかった。
 ギルはいつも危ない方を選ぶ、雨なら、わざとぬかるんだ道を。待ってと言っても聞いてくれない。ぴょんぴょん飛んで、だいぶ進んでから、ほこらしげに僕を振り返るだけ。
 いつも強引で、やりかたが自分勝手な時もあるけれど。行動力があって、活発で――先生も驚くようなアイディアを出しては、危険な遊びをみんなに広めてしまう。
 勇気があって、自分の気持ちがはっきりしていて、おしゃべりが上手だ。――ギルは僕にないものを全部もっているんだ。
「汚れてたら、失礼かな……」
 君を追いかけている時は、僕はなんでも出来る気がしている。昨日は何度飛んでも失敗しなかったのに、こんな小さな水たまりで泥をつけるなんて。
「……いいや。ギルベルトのお父さんに、汚れた服でごめんなさいって、ちゃんと言おう」
 ズボンの染みを、もう一度ちらりと見てから、僕は曲がり角で普段とは逆方向に進んだ。先生に聞いたとおり、並び建つ家々のなかに、すぐ公園が見えてくる。公園の角から、三軒目、青い屋根の家――ここだ。意を決して、呼び鈴を鳴らした。
「……あれ? お留守?」
 しばらく待っても返事がない。もう一度鳴らすかどうか、どうしよう、と迷う。
 その時、カシャンカシャンと硬い音が響いた。誰かが内側から二重ロックを外して、ゆっくりゆっくり扉が開く。
「ギルベルト!」
 おでこに白いものを貼ったギルベルトが、ぬっと顔を出す。
「……入れよ、」
「う、うん」
 外の空気には触れたくないのか、ドアは半開きのままだ。僕はわずかに開いたその隙間へと、滑りこむようにして家の中に入った。なんだか泥棒みたいで気が引ける。
「お、」
「待て……なるべく、静かに」
「……?」
 ……おジャマします、を言うのもダメなの? よく分からないけれど、いつもの強引な俺流≠フルールかもしれない。従っておいたほうがいい、ギルのやり方はだいたい正しいんだ。
 僕は黙って、抜き足さし足で、ギルの後ろに続いた。どこかに人がいる気配がして、だんだん声が聞こえてくる。
 廊下の途中で、僕は一度立ち止まった。このガラス戸の向こうに人がいるようだ、ガラスに姿が映らないよう、前を素早く通り過ぎる。一瞬だけ見えた雰囲気からすると、たぶんここがリビングなのかな。
 聞こえてくるのは大人の男の人の声だった、ひとりの声しか聞こえないので、電話中なのだとすぐに分かる。
「なにしてんだ? こっちに来い」
 ちいさな声に静かに頷き、手招きされるまま階段へ向かう。ギルはけほけほと控えめな咳をして、二階に上がってすぐの部屋へ僕を招き入れると、慎重にドアを閉めた。
「……ここが、君の部屋?」
 わぁっと声を上げてから、「うるさい!」とギルに睨まれた。僕は慌てて口を閉じながら、それでも人の部屋を見るのが珍しくて、はしゃいでしまう。
 ここはまさしくギルベルトの部屋だ。学校の机がおもちゃ箱なら、ここは完璧なトイランド、子どもの王国だと思った。
 どこもかしこも男の子が好きな色、赤青黄の原色で出来ている。机も、カーテンも、吊り下げられた気球の模型も。
 僕は棚を見て驚いた。たくさんのおもちゃが、まるでレゴブロックのように、隙間なく詰まっている。デパートにだってこんな品揃えはない、男の子なら誰もが溜め息をつくような棚に、しばらく見惚れてしまった。
 でも……気のせいかな? なんだか、どのおもちゃもみんな元気がない。うまく言葉に表せないけれど、想像していたのと違う、と思った。
 ギルベルトの部屋なら、もっと、もっと……駄目だ、やっぱり分からない。
「あの……ギルベルト、」
「……ん?」
 初めて聞くような、ちいさな声だった。
 ここがおもちゃの王国なら、ベッドはきっと司令塔だ。司令官のギルベルトは僕に構わず、もそもそとベッドのなかに入っていく。
「電話をしていた人が、お父さん?」
「……お前、プリン持ってきたのか?」
「えっ」
 全然会話が噛み合わない。ギルベルトの様子も、なんだか半分夢のなかみたいにぼうっとしていて、いつもと違う。
「なんでもない……“おみまい”って、プリン持ってくることじゃねーのか……」
 そこでまた、ギルがけほけほと咳き込み、布団に顔をすっぽり埋めてしまって。
 そうか、風邪をひいてるから声がちいさいんだ。そうだった、僕はお見舞いに来たんだった。
「ギル、あのね、」
「なんだよ」
「あの……元気?」
 僕のばか、ばか! こんなこと言って、元気じゃないに決まってる。いったい、お見舞いって何をすればいいんだろう?
 おでこに冷たいシートを貼ったギルベルトは、何も言わず、ただ悲しそうな目で布団の隙間からこちらを覗いている。中から咳が聞こえ、そのかすかすと乾いた音を聞くうちに、ギルがすごくかわいそうに思えてきた。
「だ、大丈夫?」
 こんな時、お姉ちゃんならどうするだろう?
 僕はゆっくりベッドに近づくと、思いきって手を伸ばし、ギルの体をさすった。ギルはやっぱり黙ったまま、布団にほとんど隠れて、おとなしく僕に撫でられている。
「あっ、あのね! プリンじゃないけどね、」
 ごそごそと上着のポケットを探った。
「昨日、科学館に行ったの」
 本当は君を誘うつもりだったんだ、とは言わず、色違いのキーホルダーを二つ両手に掲げて、えへへと笑う。
 ちっちゃな物だけど、それでも本物の宇宙船と同じ形だって、お店に書いてあった。赤と青、ロケット型のキーホルダーだ。
「おみやげ、だよ!」
「お……?」
 かすかすの声がして、ギルが顔を出す。良かった、少しだけ、いつものギルに近づいた。赤い目がようやくぱっちり開き、布団のなかでもきらきら光る。
「うん、君にあげる……あれ」
 どっちの色がいい? と聞くつもりが、どちらとも素早くベッドの中に吸い込まれた。奪われた感覚もないまま、僕は空っぽになった自分の手を見る。
「ふた、つ?」
 ギルは手にしたロケットをしげしげと眺め、尋ねた。二つくれるのか、と訊きたいみたいだ。
「えっと……えっと、二つ買ったのは」
「……どっち? くれねぇの……なんで?」
 なんだか言葉がたどたどしい、熱があるのかな。息も苦しいのかもしれない、全然喋らないから。
 いつもだったら、僕がひとこと何かを言ううちに、その何倍もまくしたてる。いつものギルだったら、僕の言えないことも、言いたいことも、全部先読みして助けてくれるはずなのに。
 ……どうしよう、一つは自分用で、お揃いにするつもりだったけど。でも、そうだ、ギルベルトが元気になってくれるなら、どっちもあげよう。
「いいよ、君にあげる」
  お揃いはいつかきっと作れるし、僕のロケットもまた探そう。
 早くいつものギルに戻ってくれればいいな、と思いながら。僕は笑顔をつくり、あげるから元気をだしてねと、安心させるように言ってみせた。
「あげるね! 二つも、どこに付けるの?」
「…………」
 ギルはぶんぶんと首を振り、キーホルダーを置く。星柄のベッドの上に、ロケットが二機、宙を飛んでいるように見えた。
 天井を見れば、吊り下がっている気球の模型も、二つだ。その時やっと僕は気がついた。
「あれ……全部、ふたつ?」
 恐竜のぬいぐるみも、ミニカーも、棚に二つずつ仲良く並んでいる。どうして、二つなんだろう?
「ギルベルト、ねぇ……ギルベルト?」
「き……きもち、わるい」
「わ、わぁぁ!」
 僕は必死になって布団をさすった。顔半分しか出てないギルベルトの、いったいどこをさすってるのかも分からないけれど、ただ一生懸命に手を左右に動かす。
「……くすり」
「お父さん、よんでくる?」
「だめだっ! 仕事してるんだから……イヴァン、お前……」
「へ? ……えぇぇ」