――それから数分後、僕はまた暗い廊下に戻っていた。
(うぅ、どうして? 泥棒さんみたい……)
電話はまだ終わっていない。話し声に向かっていくように、勇気をだして廊下を進む。
ギルベルトに言われた通り、すぐ隣が台所だった。入口は別れているけれど、キッチンカウンター越しに、リビングの広い空間と繋がっているようだ。きっと少しでも物音を出したら気づかれてしまうだろう。僕はそろそろと足音を消して、台所のなかへ入っていく。
(見つかりませんように……)
人の家の台所に入るなんて、もちろん初めてだ。どきどき緊張しながら、しんとした床の上を歩いた。暗くて良かった、と思ったとたん、とても悪いことをしているような気がしてくる。
(ううん! これはお手伝いなんだ。お薬と水を持ってくる、それくらい僕にもできるはず)
窓から午後の光が差し込み、ダイニングテーブルには陽だまりができている。そこまで行きたいだけなのに、見つからないようにこわごわ進んでいると、はてしなく遠く思えた。
ギルのお父さんは大学の先生をしていて、いっぱい難しいことを考えなければいけないお仕事なのだけれど、今日は休んで家にいてくれるらしい。
「絶対、親父に言うな、お前が持ってこい!」
聞き取りにくいカスカスの声と、熱っぽい顔で必死に言われたら、駄目とは言えなかった。
なんでお父さんに頼んだらいけないんだろう? お休みして家にいてくれて、僕だったら、すごく嬉しいけどな。
考えごとをしていたら、床板が、きし、と音をたてた。すくみあがるような気持ちで、きょろきょろと周りを見渡す。
(ゆ、幽霊じゃないよね?)
振り返っても誰もいない。斜め向こうに見える、明るいリビングから、男の人の声がするだけだ。足元の床が、たまたま鳴っただけだと分かる。
ゆっくりゆっくり進んでいるので、知らずと肝試しの気分を思い出していたのだろうか。ここはお化け屋敷なんかじゃない、ギルベルトの家だ。でも僕の家とは何もかも違っている。流しの形も、お茶っ葉を置く場所も。
(不思議……すっごく遠くに来たみたい)
友達の家のなかを歩いているだけで、まるで知らない世界に来てしまったようだった。
小窓からは、表の公園が見えている。知らない子たちが遊ぶ声が、かすかに響いてきた。僕も、いつかあの公園で、ギルと遊ぶことがあるかな。いつか遊べたらいいな。
(あった、薬だ。あと、お水は……?)
買い物袋から中身が見えている。帰ってきてそこに置き、片づける途中でそのまま忘れられたようだ、テーブルの上で口を広げている。ジュースやゼリーが買いこんであり、奥をそっと覗けば、水のボトルもあった。
ボトルからそのまま飲むような習慣は、僕の家にはない。僕は迷いながらも、ガラスの戸棚を眺めて、ちょうどよいコップを探す。そうっと、そうっと。さっきはほっとした薄暗さが、今度は不安にさせてくる。
……夕方のさみしい時間だ、誰かが、早く灯りを点けないと。僕の家なら、きっとお姉ちゃんが……。
「ふう、あとは。…………もしもし? はい、今日は……ええ、子どもが熱を出しましてね」
少し心細くなったところに、優しい声がして、思わず明るいほうへ心がひかれた。
カウンターの影からこっそりリビングを覗けば、電話台らしい場所の前に、背の高い男の人が立っている。さっきから聞こえる声も低くて、気持ちが落ち着くような響きだ。
(へぇ、この人が、ギルベルトのお父さんなんだ……。なんだか、おじいちゃんみたい……)
白い髪が混じりはじめているのと、ずっと着込んで柔らかくなったようなセーターを見て、そう思った。僕のお父さんとはどこかが違う、なつかしいような優しい雰囲気がする。でも背筋はぴんと伸びているし、おじいちゃんみたいなんて、失礼かな。
さっき、台所の窓からは公園が見えた。リビングにはもっと大きな窓があり、この家の庭と、その中心に立つ林檎の木が見える。どうして林檎の木だと僕がすぐに分かったのか、おばあちゃんの家にある木と同じだからだ。それよりずっと、小さいけれど。
(……あれ? 木も、ふたつ、だ……)
まだ若い木が、仲良く二本並んで立っている。
お父さんの話は、前からよく聞いていた。とっても頭が良くて、大学の先生をしていて、たくさんの生徒から尊敬されている人なのだと、ギルベルトがいつも自慢している。でもそういえば、他に家の話は聞いたことがない。林檎の木だって、あのギルなら自慢しそうなものなのに――。
「えぇ、事務室に……ん?」
いけない! 優しそうな後ろ姿が、こちらを振り返りそうな素振りが見えて、僕は慌ててその場にしゃがんだ。
手にしていた薬袋が、かさりとちいさな音をたてる。僕の心臓はその何倍も鼓動した。しずかに、しずかに……見つかりませんように。
「……いえいえ、なんでもありません」
良かった、気づかなかったみたいだ。僕は水をコップに注ぐと、もう余所見せず台所を出て、真っ直ぐ廊下を進み、階段を上った。