さっきは物陰から見るだけだったリビングにいて、気がつけばソファに座っている。座り心地がとても柔らかくて、ふわふわした頭で、僕は目の前にいる大人を見上げている。
「イヴァンくん、だったかな? 驚かせてしまったね」
「い、いいえ」
湯気のたつマグカップがソファテーブルに置かれた。ギルベルトのお父さんは、正面にある椅子に座る。
座っても大きく見えるのは、きっと堂々としているからなんだ。こそこそしていた僕とは違う。
「あの、勝手におうちに入って、ごめんなさい……ギルベルトのお父さん」
「フリッツでいいよ。君を入れたのはギルベルトだろう?」
「…………」
暗い台所にも勝手に入って、あなたを見ていたんです。とは、言えなかった。
「怒らないから大丈夫だ。顔を上げて、さぁ、温かいうちに飲みなさい」
あの後、慌てたような足音が聞こえたかと思ったらすぐにギルのお父さんが部屋に入ってきた。
「フリッツさん、ありがとうございます」
僕の姿を見ても少し目を丸くしただけで、すぐさまギルを抱いたのが印象的だった。ギルもぎゅっと抱きついて、泣きやんでからは気まずそうな顔をしていて――。フリッツさんはギルをお風呂に行かせると、汚れた布団を取り換えて、あっという間に後片づけをしてくれた。
「君も覚えておくといい。薬には飲み方がある、あれは食後に飲む薬なんだ」
吐いたもののなかに、薬の形がそのまま見えていた、そのことを言っているのだろう。片づけのとき、困ったような溜め息が聞こえたのも覚えている。
「は、はい」
「薬を飲めば治ると、単純に思ったんだろうね。以前に怪我をしたときも、消毒もしないで、勝手に絆創膏をべたべた貼ってしまったし……こうすれば治る、と一度思い込んでしまったら、頑固でね。君は真似したらいけないよ?」
僕はなんと答えればよいか分からなかった。フリッツさんは笑っていて、たぶん僕らを怒っているわけじゃないと思うけど、話し方が学校の先生そのものだから、緊張してしまう。
「転校生なんだってね、学校にはもう慣れたかな?」
「はい、あの、ギルベルトがいてくれるから……毎日、楽しいです」
「ギルベルトは、たくさん悪戯をしてるかい?」
「えっと、」
僕はまた返事ができなかった。本当のことを言っていいものか、言ってギルが困らないかと、頭がぐるぐるしてくる。
「ははは、いいんだよ。やんちゃな悪戯坊主でいいんだ」
「どうして、ですか?」
「私は、ギルに、いい子になってもらいたいとは思ってないよ」
フリッツさんは、ぽかぽかした春の日差しのように笑っている。
「でも、でも……ギルベルトは、いい子です」
春の日差しに、悪戯っぽい光が一瞬見えた。目配せされて、僕はハッとする。
そっか、だからだ。いい子にならなくても良いんだ――もう、十分、いい子だもの!
カップから湯気がたち、気がつけば、あたりいっぱいに良い匂いが広がっていた。温かいココアだ、のぞきこめば白いミルクの渦が巻いている。ぐるぐる、おいしそうな渦を見て、なんだか飲む前からほっとする。
僕はフリッツさんの顔をちらりと見上げて、一緒になってくすくすと笑った。それから、そうっとココアを口に含んでみた。猫舌の僕には熱くて、あちっと舌を出し、息を吹いて冷まそうとする。
「あぁ、そうだ。これは、君の?」
「あっ、ロケット」
僕が上げた、赤と青のキーホルダーだ。そうか、洗ってくれたのかな。思わず受け取ろうとしてから、慌てて首を横に振る。
「それ、ギルベルトに上げたんです」
「二つとも? ……もしかして、あの子が、二つとも欲しいと言ったのかな」
「どうして、分かるんですか?」
僕はびっくりして、ココアから顔を離した。フリッツさんは困ったような顔をして、おでこにしわを寄せる。
「嫌だったら、嫌だと言って構わないんだ。本当にギルベルトにくれるつもりだったのかい?」
「……ぼくは……」
その時、僕はロケットを見ながら、ギルの部屋の、星柄のベッドを思い出していた。そして、ギルのことも。
――ギル、たくさん泣いてたな。わあっと泣いて、お父さんを呼んで……でも、きっと本当は呼びたくなかったんだ。だって、腕のなかで泣きやんでからのほうが、もっと悲しそうな顔をしていたから。
僕を台所に行かせたのも、お父さんを心配させたくなかったからだ。本当は、自分だけで全部ちゃんとしたかったんだ、きっと。――泣きたくて泣いたんじゃなかったんだ。
「どうして、リンゴの木が……」
「ん?」
「ぬいぐるみも、オモチャも、二つずつ……どうして?」
ロケットは、一つずつ持って、お揃いにしたかった。
でも僕は、ギルが欲しがるんなら、あげたっていいんだ。ギルが喜ぶなら、何個でもあげる、あげたいんだ。
でも、ギルは何個もは欲しがらないんだと思う……どうして二つなんだろう?
「あの木は、下の子が生まれた時に植えたから……やっと八年になるか」
庭のあちこちに、落ち葉がたまっている。そういえば、よくギルの靴や上着に、落ち葉がくっついているなと思い出した。きっとこの庭で遊ぶからなんだ。
下の子? と僕が問いかける前に、フリッツさんは優しく微笑みながら「ギルの弟だよ」と教えてくれる。
「君はいくつになる?」
「ぼく? ぼくは、もうすぐ誕生日がきたら、十歳になります」
「冬生まれか。ギルベルトもそうだよ」
僕は、知ってます、と元気よく言ってしまってから、恥ずかしくなってはにかんだ。それは、僕とギルの数少ない共通点だ。
フリッツさんは立ち上がり、しばらく窓の外を眺めていた。何かを思い出しているのか、時々、額にしわを作る。
僕のおじいちゃんなら、もっと額にしわがある。でも、フリッツさんのは、もっともっと優しく見えた。優しくて、なんだか悲しい。
「……最初に、またすぐ一緒に暮らせるようになると、嘘を言ってしまったんだ」
フリッツさんの顔を、夕方のさみしい光が照らす。外は寒そうだけど、この家は暖かい。
「あの子と二人で遊園地に出かけた時にね……楽しかったなぁ……そうしたら、お土産をねだる時、二つ持って来たんだよ。
二人だけで楽しんだなんて、悪いから、あいつの分もなくっちゃ≠ニ言うんだ。私は、しまった、と思った。その場しのぎのつもりで、二つ買ってあげて……それからずっとだ。あの子は、頑固なところがあるだろう?」
僕はぶんぶんと首を振った。――頑固、ってどういう意味だろう? きっと、良い意味じゃない気がする。
「でも、でもギルベルトは……すぐに、ごめんなさいが出来るんだ……けんかしても、自分がまちがっていたと思ったら、素直にそう言ってくれるんです、だから、」
いつの間にか、驚いたような目で見られていた。僕は、気まずくなって口を閉じる。
……僕はまだ子どもだから、話を聞き間違えて、おかしなことを言ってしまったのかな? でも、フリッツさんはやっぱり笑っている。
「本当だね。間違えたら、素直に謝らなくては」
「お、お姉ちゃんが、そう言ってたから」
「……頑固なのは、私のほうかな」
僕は本当に困ってしまった。ココアを飲んでるふりをして、目を反らす。
フリッツさんの優しすぎるほほえみが、何かを悲しんでいるように見えた。なんだろう、僕のせいなのかもしれない。何か、悲しいことを言ってしまったのかな。
「いやいや、どうしてこんな事を話してしまったのかな……君は不思議な子だね。なんだか、いろいろ打ち明けたくなる」
窓辺から移動して、今度は僕の隣へと座ってくれる。
柔らかそうなセーターの、毛色の先が光るのが見えた。すぐ触れそうなくらい、近い。
「ぼく、ぼんやりしてる、って……通知表にも書いてありました」
不思議な子、変な子とは、よく言われる。もう慣れっこだ。
「はは、そうなのか。これは私の勘だけど、頭のなかが忙しいんじゃないかい? ……きっと、君は優しい子なんだよ」
カンジュセイが強いんだろうな≠ニ言われても、よく分からなかった。この人は、大学の先生だというから、僕らの知らない難しい言葉をたくさん知っているのだろう。でも学校の先生よりも話しやすくて……お顔もかっこいい!
優しい子――家族以外の大人の人から、そんな風に言ってもらえたのは初めてだった。照れくさくて、えへへ、と笑う。本当にそうなのかな、そうだったら嬉しい。
「これはもう一度、ギルベルトとよく話してみたらどうかな?」
ロケットを手渡された時、セーターの袖が少しだけ触れた。それは思ったとおりに柔らかくて、僕は不思議な気持ちになった。
「あの子と友達になってくれて、ありがとう」
この人が、ギルベルトの自慢のお父さん……きっと、ギルが世界で一番大好きな人。
僕は窓の向こうを眺めた。日が沈む前に帰るという、両親との約束を思い出す。
帰る前に、もう一度ギルベルトに会おう。そう思いながら、両手にロケットを握りしめた。