良い匂いがした。この匂いは今迄嗅いだ覚えがない。

だが、腹が音を立てて、本能的に判った。此れは食べ物の匂いだ。

美味しそうな匂いにつられて閉じていた瞼を開け___名前は暫く状況が理解できずにきょとんとしていた。



此処は何処だろうか?



取り敢えず、何時も眠っている路地裏とは違う事は確かだった。室内だからだ。

名前は今、真っ白なふかふかの布の塊に横たわっている。しばし考え、此れは「ベッド」なる物だと思い出した。もう何年もお目に掛かっていなかったけれど。

「…………、」

名前は首を巡らせて自分の眠っていた場所を確認した。

左手側には扉。誰かが入って来る気配は無い。

右手側には机と椅子と大きな窓。机の上には花瓶に生けられた花。それから、お盆に器が一つあり、湯気が立っている。

美味しそうな匂いの発生源はこれだ。

のそのそと掛布をどけて身体を起こす。

腹は正直にぐるるるると唸った。恐る恐る盆に手を伸ばし、皿の縁を掴む。見た目程熱さはない。

器の中身はこれまた懐かしい粥だった。

「ぅー、」

器の隣に置いてあった匙を手に取った所ではたと動きを止める。

此れは自分が食べても良いものだろうか。

器と匙をそれぞれ持って悩んだ時、

こんこん。

扉を向こう側から叩く音がした。

「失礼するよ」

入ってきたのは、男の人だった。

昔病院で見た白衣を着ているから、屹度お医者様なんだろうと名前は思う。

医師は、起き上がった名前を見てにこりと微笑んだ。

「ああ、起きたんだね。身体の調子は大丈夫かい?」

「…………ぁ」

私は如何して此処に居るのですか、此処は何処ですか、貴方は誰ですか、と聞きたいが、上手く舌が回らない。

口を半開きにしている名前に、医師は優しく云った。

「君は私の部下に手傷を負わされてね___だが君の様な幼い子が傷だらけではいけないから、勝手にではあるけれど手当をさせて貰ったよ」

その言葉に、はっと思い出した。

あの黒布の遣い手。真っ黒な男。

名前はあの男から逃げ回り、結局捕まり、そして意識を失ったのだ。

余りに怒涛の展開過ぎて、今の今迄すっかり忘れていた。

硬直する名前に何を思ったか、医師は続ける。

「私は此れでも医者だからね。自分で云うのも何だが、腕は確かだ」

だから安心して休むと良いよ、と医師は頭を撫でてそう云ってくれた。

……ぐぅるるるる。

のに、名前の腹が返事をした。早く何か胃袋に入れろと急かす。

「…………!」

恥ずかしさに顔を赤らめ俯く名前に、医師は笑顔で云った。

「其れを食べた後で話をしようか」

有難くその申し出を受けて、こくりと頷く。

お礼を云おうとして、未だこの人の名前を知らない事に気付いた。

「ぁ、の」

そっと医師の袖を引いて、自分を指差す。

「名前、」

辛うじてそれだけ云えたが、医師にはちゃんと伝わったようだった。

医師は同じように自分を示し、

「私は森鴎外だよ」

と、そう云った。






此れが、ポートマフィア首領、森鴎外と名前との初対面だった。






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