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仕事始めを無事終えて、私はあのお店に向かった。
お店の名前は覚えてなかった。
唯解るのは、凛さんという美人さんと、裕次郎さんといういい人がいるってことだけだ。



店の前に付いて、看板を見る。
思っていたよりも汚れてるけど、やっぱりまだ新しい。

「しまたから」
「正解」

看板の言葉を読んでみたら、後ろから声が聞こえて私はびく、と肩を強張らせた。
後ろを振り向いたら随分と背の高い人がいた。
凛さんや裕次郎さんとは違う低い声に似合う強面…という印象だ。

驚いた私を見て、彼はごめん、と微笑んだ。

「くぬ店ぬ名前、読める人少ないんさぁ」

何事もなかったように会話を続ける彼から一歩足を引くと、顔が見やすい。
そこまで首が痛くない。

「他に、どんな読まれ方したんですか?」
「“とうほう”とか、“しまだから”とか。
いろいろ」
「あぁ……」

なんとなく、納得できる。
見慣れない並びだから、どきゅんネームみたいな奇抜な読み方もしてしまいそうだ。

「うんじゅや、凛に感性が似ちょるのかもしれないさぁ」
「凛さんに?」

唐突に知った名前が出てきたから、私は目を瞬かせる。

「凛が考えたからやぁ、くぬ名前」

その人の言葉が、少し、嬉しく感じて、思わず口角が上がる。
あんな素敵な人に、感性が似てるなんて、一般人には褒め言葉だ。
仮に世間一般に褒め言葉じゃなくても、私には褒め言葉だ。

「あ」

ひとりでにやけるのを堪えていると、彼は呟いてから、お店のドアを開ける。

「あぃ?」
「めんそーれ。
お客さんあんに?」

ふわりと笑うその表情に、凛さんに似たものを感じて、胸が温かくなった。

促されるままに店内に入ると、一ヶ月前のことがデジャヴュした。
凛さんに慰めてもらったことが痛烈に思い浮かぶ。

店内は、特に変わったところは見えなかった。
それもそうだろう。
開店したばかりだった店がたった十日で内装を変える訳もない。

ふと見ると、店内にいた人々が私を見ていた。
全員が同じポロシャツを着ているところを見ると、どうやら今、お客さんは居ないらしい。

「めんそーれ」

それぞれの声でその言葉が聞こえて、最後に後ろから寛さんが声を掛ける。

「しちゅんなとっくる座ってゆたさんさぁ」

そう言われて、私は前と同じところに腰掛けた。
座ってからバッグを隣の椅子に置いていると、おずおずと私の傍に来る影が視界の端に映った。

「くり、メニューやいびん」

おかっぱ頭の人がにこりと笑ってメニューを差し出す。
それを受け取りながら、私は礼を言った。

「あぬ、凛さんってなま居ませんか?」
「あり、凛ぬ知り合い?」

そう言った声の持ち主が、私を見た。
そして私と彼の声が「あっ」と声を揃えた。

「めぇに凛が泣かしたいなぐ!」
「激しく誤解やいびん!」

裕次郎さんに指差して言われたから、私は凛さんの為、そして私の為にも即答した。
私の否定に目を丸くしている裕次郎さんは、今度は金魚のように口をパクパクとさせた。
裕次郎、と周りに名前を呼ばれると、意識がはっきりしたのか、声を発する。

「やしが、凛や“わんが泣かした”ってあびってたさぁ」
「えぇ!」

びっくりして思わず声を張ったら、傍にいたぱっつんの子が目を瞑った。
私の声に驚いたのだろう。
……驚かせてごめんなさい。

店の窓から見える公園を指差して、私は言葉を続ける。

「わん、あぬ日そこぬ公園で彼氏んかいフラれたんです」

この言葉がスラスラと口を出たのは、もう引きずってないから。
だから、私は今日、ここに来た。

「凛さんには隣んかい居て貰っただけで、他にはぬーも…」

…何も、ない。

だから、忘れてるかもしれない。
裕次郎さんが覚えていても、凛さんは忘れてるかもしれない。
私のことなんて、記憶の片隅にもないかもしれない。

なんで私、来たんだろう。
この場所に、来てしまったんだろう。

そう思ったら、居てもたってもいられず私は立ち上がった。

「わ、わん!
けーるやいびん!」

メニューを置いて、荷物を持つ。
目を見張る店員さんたちが視界の隅に映った。

「慌ただしくてわっさいびーんっ」

それだけ言って、店を出た。
公園を横切ろうと道路を渡ろうとすると、店の方から声が聞こえた。

「えー、待てっ!」

前にここに来たのは一月も前で、一度しか聞いたこともない。
でも、解った。
この声は凛さんだ。

慌てて振り返ったら、凛さんがあのポロシャツを来て、目の前に居た。

「やー、ぬーんちけーるんさぁ?」

俺に会いに来たと思ったのに。
そう苦笑した凛さんに、私は俯いた。

「わ、わっさいびーん。
……凛さん、わんぬくとぅなんか覚えてないんじゃないかとうむたら、つい…」

そう言ったら、凛さんは私に一歩近寄って、頭をコツンと叩いた。

「せめて会ってから逃げれー。
わんやちゃんと、やーぬくとぅ覚えちょるさぁ」

その言葉が嬉しくて、私はつい、一粒の涙を零した。

「なちぶーやさ」
「かしまさい」
「凛さんがやな、やいびん」

そう言ったら、凛さんはそっか、と笑った。