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仕事終わり、久々に三時間を超える残業を終えて私はコンビニでお菓子を買って帰宅する。
最寄り駅に着いた頃には十時を回っていて溜息だ。
金曜日であることがせめてもの救い。
ポアロのある通りに差し掛かってふと思う。
そういえば、ポアロってテイクアウトとかやってるのかな。
カフェオレは凄く私好みのコーヒーの味とミルクの濃さで、お店で飲むのは正直かなり億劫だが、帰り道に買って家で飲むことはしたい。
今度誰か掃除とかしてたら聞いてみよう。
いざお店の前に近付くと、安室さんが店先で看板を道の端に寄せていた。
安室さんは手をパンパンとはたいて顔を上げる。
と、ぱちりと目が合った。
楽の表情をにっこりと笑顔に変える彼は店員の鏡だろう。
「ひなさん。
お仕事帰りですか?」
「はい。
ポアロってこんな時間までやってたんですね…」
町の喫茶店ってそんなに夜遅くまでやってるイメージがなかったので思わず呟くと、彼はあはは、と白い歯を見せて笑った。
わぁー、イケメンって夜遅く見てもイケメンなんだなぁ。
くたびれ切っている自分とは大違いだ、と切なくなる。
「実は、今日はちょっと作業してて…。
看板仕舞い忘れたことに今気付きました」
「作業?」
「えぇ、テイクアウト始めないか相談をしていて、テイクアウト用のレイアウトや味付けを考えていたんです」
おぉ、なんとタイムリーな。
有難い言葉に目を瞬かせる。
そんな私を見て、彼は少し首を傾げた。
「あの、それってドリンクメニューもやります?」
「えぇ、その予定ですよ」
「やった!
先日頂いたカフェオレ凄く美味しかったなぁって思って。
テイクアウトできたらいいなって思ってたところなんです」
一瞬きょとん、とした彼が嬉しそうに笑う。
「それはよかった。
あの、もしお時間よければ味見していただけませんか?
お店でお出しするものとは少し豆とか変えてるんです」
時間的にも帰りたい気持ちもあったが、どうせ徒歩五分の距離だ。
飲みたいと思っていたカフェオレを飲めるならと思って軽率に頷く。
頷いた私を見て、彼は店の扉を開いて中へ促した。
どうやら作業は一人で行っていたらしく他の店員さんは居ない。
「豆挽くので、座って待っていてください」
カウンターを案内されて、少し気まずい。
だが、カフェと言えばチェーン店、家でもインスタント。
良くてパックのドリップコーヒーで、豆を挽くところを見るのは実は初めてだ。
手動のミルを手に取った彼を見て、私は思わず前のめりになった。
なんか独特な形のスプーンで豆を掬ってコーヒーミルに入れている。
まるで魔法の手みたいで、彼の作業を眺める。
「そんなキラキラした目で見るほど面白いですか?」
ふふ、と笑う彼に、年甲斐もない真似したな、と少し前のめりになっていた体を戻す。
「実は豆挽いてるところ見るの、初めてで…」
「そうなんですか?
やってみます?」
と、コーヒーミルを渡される。
「え!
私がやったら味変わっちゃいません!?」
思わず解き放った言葉に安室さんは楽しそうに笑う。
「豆を挽くぐらいなら変わらないから大丈夫です」
差し出されたコーヒーミルと、彼の顔を見比べた後、好奇心が勝った。
圧勝だった。
おずおずと差し出されたコーヒーミルに手を伸ばして、私は豆を挽く、という作業を行う。
「あまりスピードは上げすぎないでください」
そう言われて遅すぎず早すぎず、リズムを奏でるように挽く。
ガリ、と時折引っかかるように固くなることに慄くが気にしないで、と言われて気にせず作業を続ける。
ミル越しではあるがコーヒーのいい香りが広がって面白い。
少し軽くなったかな、と思うと、引っかかるものがないようなスカった感触に変わったところで安室さんはありがとうございます、と笑った。
「お客様働かせちゃいましたね」
コーヒーミルを下げながら茶目っ気でそう言う彼にいえ、と頭を振る。
「貴重な体験でした。
ありがとうございます」
カフェオレは好きだがブラックでコーヒーを飲めない私としては、そんないい環境でコーヒーを飲むことに重点を置いておらず、故に今までチェーン店かインスタントだった。
だが、なんとなくこうやってコーヒーミルで豆を挽くだけの作業をしただけで、いつも飲んでいるコーヒーが格別に美味しいもののように感じる。
三角形の紙…フィルターと言うらしい、を機器に付けて粉となった豆を敷き詰める。
「ブラック飲めますか?」
不意に聞かれた言葉に私はビク、と体を跳ねさせた。
意地を張る、訳ではないけれど、こうして営業時間外にお邪魔してるのに飲めないとか言っていいのか。
いや悪いだろう。
大人になれ、私。
味覚的にも。
「…のめ、ま…」
「飲めないんですね、わかりました」
最後まで言う前に察してもらってしまった。
うぅ、穴があったら入りたい。
そう思って思わず両手で顔を隠すと、安室さんはクスクスと笑った。
「実は、僕もコーヒーにはミルク入れる派なんです」
「え、そうなんですか?」
こんなおしゃれでかっこいい人だから絶対にブラック派だと思った。
「はい。
以前ブラック飲み続けてたら胃をやられまして」
あぁ、飲めない訳ではないのだな、とその言葉で察する。
「ドリップコーヒーなので、カフェオレにさせていただきますね」
「ありがとうございます」
知識としてカフェオレとカフェラテの差は分かるが、正直味覚として把握していない。
ちょっと勉強しようかな、と寝て起きたら忘れていそうなことを思った。
独特なポット…ドリップポットというらしい…でお湯を注ぐと、見慣れた透き通った茶色の液体が下から滴る。
豆を挽いた時以上の香りが店内に広がる。
「豆を変えるのってどんな意味があるんですか?」
私の質問に、安室さんはそうですねぇ、と呟く。
「ひなさんは、紅茶は飲みますか?」
「えぇ、こだわりはないですけど」
「アイスティに向いてる茶葉、ミルクティに向いてる茶葉ってあるの知ってます?」
どうしてなのかは分からないけれど、純粋な知識としてなら知っている。
はい、と頷くと、コーヒーも同じなんですよ、と答える。
「豆によって酸味が強かったり苦みが強かったり。
焙煎…豆を炒るんですけど。
その度合いでも味が変わります」
「へぇ…。
普段カフェオレとカフェラテしか飲まないから、あまり深く考えたことありませんでした」
ふむ、と人差し指を顎に持ってきた彼が別の豆を挽く。
「ちょっと飲み比べしてみましょうか」
え。
従業員さん、大丈夫ですか。
妹情報ではあなたはバイトでは…?
「ふふ、秘密ですよ」
にこりと笑う安室さんに、ドキリとする。
あぁ、こうして世の女性は落ちるのだなぁと言わずともわかってしまった。
私が挽いたものとは違う豆を彼は挽いてコトコトとコーヒーを淹れる。
二つのコーヒーを私の前にサーブして、彼はどうぞ、と笑った。
飲み比べということもあってブラックだ。
先に自分で引いたテイクアウトのカフェオレ用のコーヒーを飲む。
カフェオレ用と言うこともあって味は随分濃いように思う。
…表現濃いで合ってるのかわからないけど。
カップを置いて、もう一つの方を手に取る。
見た目は大差ない。
「これはどういう時の豆なんですか?」
「アメリカン用ですよ」
ということはブラック向けだろうか。
こく、と喉を鳴らして嚥下すると、さっきとは全く違った香りが広がる。
コーヒーの濃さも大違いで、びっくりだ。
「え…これならブラック飲めるかも」
「成る程…。
ひなさんは酸味が苦手なのかもしれませんね」
そう言われて、へぇ、と頷く。
自分のことながら他人事だ。
だって正解がわからない。
そのまま、彼は温めたミルクを使ってカフェオレを作ってくれた。
先日飲んだカフェオレと遜色なく、むしろもっと美味しいカフェオレの虜になりそうだ。
素直に感想を伝えると、彼は良かった、と笑った。
あまり遅くなるのも、と思ってテイクアウト用のカップを持ってお暇しようとする。
「お代いくらになりますか?」
そう聞くと、試作品ですから、と辞退された。
こんな美味しいものを頂いたのに申し訳ないな、と思っていると、彼は送りますよ、と言った。
「いや、そこまでお世話になるわけには!
ほんのちょっと歩くだけですし、大丈夫ですよ」
「ひなさんみたいな女性が夜一人歩きは危険ですから」
申し訳ないがこの近所を五分歩くだけで事件に関わるほど立派な見た目は所持していない。
「少し待っていてください」
そう言った彼が店の食器類を片して戸締りもして、身支度を整える。
どうやら今日の作業はお開きの様だ。
いくらもしないうちに彼は上着を羽織ってきて、私を手招きする。
また秘密ですよ、と言った彼は裏口までを一緒に歩いた。
裏口の鍵を閉めて、夜の街を歩く。
男性の隣を歩くのは仕事以外では久しぶりだ。
当たり前に道路側に歩くこの人に慣れてるなぁと思ってしまうのはご愛敬だ。
「遅くなってしまってすみません。
時間大丈夫ですか?」
「帰って推し見ようと思ってただけなので、大丈夫です。
寧ろコーヒーミル挽けて楽しかったですし!」
ありがとうございます、と笑うと、彼も安心したようにはにかんだ。
今日来たお客さんの話、ランチに食べたパスタの話。
そんな会話をすれば五分の道のりは一瞬だった。
「送っていただいてありがとうございます」
「こちらこそ、ご協力ありがとうございました」
ふたりでお礼を言い合って、なんだかそれが面白くてクスクス笑った。
「では、おやすみなさい」
そう言って家に入ろうとすると、彼はひなさん、と私を呼んだ。
扉に手をかけたところで声をかけられて、私は振り返った。
安室さんはいつものはにかみを抑えた、真剣な表情で呟く。
「僕はまた、あなたに会いたい」
ドクン、と鼓動が大きくなった。
一瞬後には、安室さんはまたいつものはにかむ表情を浮かべる。
「お店でお待ちしていますね」
そう言って彼は去っていった。
その背中が見えなくなってから私はバタバタと家に入って、家族への挨拶もそこそこに自分の部屋に向かった。
顔から火が出そうだ。
「え…えぇぇ?」
安室さんの真意が読めなくて私は頭を抱える。
たったひとつの約束もない。
特別仲がいいわけでもない。
なのに彼は、私に会いたいとそう言った。