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あの夜の邂逅からあまり日を開けず、テイクアウトは開始された。
私は週に何度か帰り道に寄ってカフェラテかカフェオレを頼む。
そんな日常が生まれた。



通うようになってまだ一か月ほどだが、既に聴き慣れたドアベルを聞いて、私は入店した。
カウンターの向こうにいる安室さんがにこりと微笑む。

「いらっしゃいませ」

お仕事お疲れ様です、と言う彼がテイクアウトのメニューを差し出そうとしたのをあの、と遮る。

「今日店内でお願いします」

妹に連れられて以来初の店内飲食だった。
安室さんは目をぱちぱちと瞬かせた後、笑みを深くした。

「はい。
カウンターでいいですか?」
「はい」

案内してもらった席に座って、メニューを眺める。
初めての食事だから量や味が想像つかないが、周りから香ってくる料理の匂いだけで美味しそうだと察しが付く。
パスタも美味しそうだが、ご飯ものも美味しそうだなぁ、と悩んでいると、傍を通った安室さんがクスクスと笑った。

「え…」

びっくりして顔を上げると、安室さんがすみません、と楽しそうに謝った。

「悩んでる顔が、ゆなさんと同じだったのでつい」

妹と似てる判定を図らずもされてしまって、私は思わずメニューで顔を隠した。

「…忘れてください」
「僕、記憶力いいんです」

言外に拒否された。
なんだこのイケメン。
安室さんって柔らかい物腰の割に圧強いよな、と思う。

パスタと食後のカフェオレを頼むと、彼は畏まりました、と微笑んだ。
丁度注文が空いていたのか、そのまま私のメニューを作ってくれているようだ。
楽しみだなぁ、とスマホをいじりながら待っていると、比較的すぐにパスタは完成したらしい。
乾麺じゃなくて生麵だったのか。
それは期待大だ。
町の喫茶店舐めてた。

そんなことを思いながら、両手を合わせていただきます、と呟く。

カルボナーラの濃厚さがしつこくなく心地いい。
ももちもち平麺で私好み。
最高、幸せ。

そんなことを思いながら舌鼓を打って、綺麗に完食した。
私の完食に気付いた安室さんがお皿を下げてくれて、すぐにカフェオレを持ってきてくれる。
流れるようにその作業をしていた安室さんを見て、このひとの頭の中覗いてみたいな、と思う。
タスク管理しっかりしすぎでは?
その能力譲ってください。

今日もすっかり抜けていた業務を指摘されたこともあってちょっと落ち込んだが、過ぎたことは過ぎたこと。
くよくよしても仕方あるまいと私は前を向きたいと思います。
過去とか振り返ってられないよね。

一瞬沈みかけた感情を美味しいカフェオレ一口で浮上させて、私は持ってきた小説を開いた。
推しの出ている原作小説だ。
モチロンブックカバーをかけているのでぱっと見でどんな本を読んでいるかは分からないが、知り合いに見られれば今度は何のノベライズだと言われるから私には読書のイメージがないらしい。
人並みに読むのに失礼である。
よく自衛隊の恋を書いている作者さんも全部読んでいるし、某魔法魔術学校だって原作(翻訳版)全部読んでいるのに。

少し集中して読んでいると、ふと時計を見ると一時間が過ぎていた。
わぉ、時間マジック。
すっかり冷めてしまったカフェオレを一口口に含むが、美味しさは損なわれていない。
流石です。
辺りを見回すと店内には誰も居なくて、なんということでしょう、浦島太郎もびっくりだ。

クスクスとまた笑い声が聞こえて持ち主の方を振り返ると、やっぱり楽しそうに笑っている。
そんな表情が絵になるから羨ましい。

「集中できましたか?」
「えぇ、お陰様で」

安室さんの言葉にそう答えると、彼はそれはよかった、と笑った。

「本、よく読むんですか?」

そう聞かれてまぁ、と答える。

「難しい本は読みませんけど、文芸書くらいはよく」
「なるほど。
今日は何の本を読んでるんですか?」
「今日は、昨日発売の小説の続編を!」

推しが出ている本は刊行ペースが遅く、滅多に新成分を吸えないので貴重だ。
今三分の二を読み終えたところだが、残りはより集中して家で読みたいと思ったのでキリがいいところで止めた次第である。

「なるほど。
楽しみにしていたものなら集中力も倍増ですね」
「そうなんです」

えへへ、と笑ってカフェオレをもう一口。
食事の支度をせずに、片付けもせずに小説に集中できるとか最高。

「でも、来ていただいて言うのもなんですがご自宅の方が集中できるのでは?」

こて、と首を傾げた彼にまぁ、と曖昧に頷くと、彼はその目にある疑問の色を深くした。
隠すことでもないので素直に言う。

今日は両親は結婚記念日の旅行、妹は友達の家に泊まりにで行くから自分で食事の支度も片付けもしなくちゃならなかったのだと。

「小説にも集中できたし、食事も美味しかったしカフェオレは言わずもがな。
来て正解でした」

そう言うと、きょと、とした表情をした後に彼は嬉しそうににこりと笑った。

「そう言っていただけると僕も嬉しいです」



カップの中身が空になってから帰ろうとすると、ひなさん、と安室さんが声をかけてきた。
どうしたのかと思って振り返ると安室さんは送りますよ、と言った。

「え、そんな迷惑かけるわけにはいかないですよ」
「最近は変質者が出るそうですよ。
心配なので、送らせてください」

そう言われると怖い、が、たかが五分の距離だ。
走れば何とでもなるだろう。
心配そうに表情を歪めている安室さんは優しい。
優しいが、もし店内に女性客が居たら、榎本さんが言うところの「炎上案件」である。
純粋に推し活を楽しみたい、そしてカフェオレ・カフェラテを飲みたい私はそれは避けたいところだ。

「安室さんもご存じの通り近いですから。
また来ますね」

ごちそうさまでした、と言ってポアロの扉を通り抜けた。
私を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、聞こえないふりをした。



たかが五分。
そう思った私をあざ笑うように、丁度中間にある公園の傍で背後から口を抑えられた。

「んぅ…!?」

抑えられた手の中にくぐもった声が響く。
ズリズリと引きずられて、夜の公園へと足を踏み入れた。
この公園は広いわりに灯りが少ないと有名だ。
公園の一部が森のようになっていて、浮浪者のたまり場みたいになっているとも聞く。

「んぅ、んー!」

どうにか逃げないと、と抵抗してみるが、背後の人間は息遣いと体の大きさから察するに男のようで、力で敵うはずもなかった。
男の腕がお腹に巻き付く。
それだけでぞわりと背筋が凍った。

足を払われて転ばされて、私は情けなくも尻餅をついた。
地面が砂利になっているので擦った足に痛みが走る。

恐怖で目に涙が滲む。
覆いかぶさった男の身体から伸ばされた腕がシャツの下からぬるりと入ってきて、腹、そして胸に触れる。
あまりの恐怖に、そして情報をシャットダウンしたくて、私は固く目を瞑った。

その時だった。
バキィ、という音が響いて、私の上から重みが消えた。

「ひなさん!」

聴きなれた声が閑散とした夜の公園に響いて、私は目を開ける。

「あ、あむ…」

ろさん、と続ける前に、彼は私の前を通り過ぎて吹き飛んだらしい男を拘束した。
え。
喫茶店店員が男を(恐らく)殴り飛ばした後にこんなスムーズに拘束とかできるの?
パニックになった頭が考えたことはそんなことで、我ながら呆れる。

安室さんはと言うと、110番をしたのかイヤホンへ話しかけている。
ほんと、早業ぁ。

「すぐに警察が来るそうです。
もう少し、待っていてくださいね」

男の上で、にこりと笑う彼に頷くと彼は満足そうに笑みを深めた。
その笑みが怖く見えるのは、たぶん、気のせいだ。

「…安室さんって、何者ですか?」

ただの喫茶店のアルバイターではないだろう。
男が抵抗しているのに拘束はまるで離れそうにないし、ことの進め方がスムーズだ。

「ご家族から聞いてませんか」

ゆなの名前を出さなかったのは、男が意識を持ってそこにいるからだろう。
彼の気遣いに感謝しつつ頷く。

とても男一人拘束しているとは思えないほど爽やかに、彼は笑う。

「プライベート・アイ。
探偵ですよ」

ストン、となにかが合致した。
ような。
してないような。

目の前の事象からは理解できるのに、脳みそが反発しているような、不思議な感覚。



その後、到着した警察官と一緒に安室さんと暴漢と近くの警察署に向かい、聴取を受けた後帰宅することになった。
擦りむいた足も治療してもらえて有難い。

安室さんの車に乗せてもらって来たので、帰りも当然乗せられていく。
一度送ってもらったこともあり案内は不要だそうだ。
安室さんの記憶力、凄い。

安室さんは、車内で無言だった。
どことなく喫茶店にいるときとは違うヒシヒシとした圧を感じるが、これが探偵の安室さんと言うことだろうか。
いや、違う、多分これ怒ってる。
正直怖いです。

そんな思いを誤魔化すように、私は彼に謝罪した。

「ごめんなさい」

ハンドルを持つ彼の指がピク、と動いた。

「心配してくださったのに、ひとりで帰って、余計な手間をかけさせてしまいました」
「僕が怒ってるのは手間をかけられたからだと、思ってますか」

安室さんとは思えない重低音だった。
ひ、と声に出さなかった私偉い。

でも、でも。
殆ど接点のない私が暴漢に襲われたくらいで、安室さんが他に怒る理由なんてあるのだろうか。
私は、このひとを知らない。
優しい店員さんの一面しか、知らない。



ホントに?



「僕が怒っているのは、貴方が危険な目に遭ったからです」
「それは、」

それはやっぱり、余計な手間が増えたから、に繋がるのではないだろうか。

「近くにいたのに、貴方が危険な目に遭い、貴方を守れなかった僕自身に。
そして危険な目に遭わせたあの男に怒っています」

それは、道理が通らないのではないだろうか。
送ると言ってくれた安室さんの言葉を流して飛び出したのは私だ。
あの男に対してはともかく、安室さんが安室さんに怒る理由なんてない。

キ、と小さな音を立てて車が止まる。
気が付くとそこは見覚えのある自分の家の前だ。
いつの間にここまで着いたんだろう。
サイドブレーキを入れた彼は体を私の方に向けて、じっと目を合わせた。

「…触れても?」
「え?はい…?」

触れる?
安室さんが、私に?

怒気からの唐突の言葉に頭がついていかず、私は頭一杯にはてなを浮かべる。
そんなことも気にせず、目の前の安室さんは私の両頬をその両手で包んだ。

え。
これは、なんて状況?

親指をすり、と動かして頬を撫でる仕草は優しいが、離す気はないのか顔は動きそうにない。
そんなことを考えている隙に、とんでもない至近距離に彼のご尊顔があった。

え。

私の思いは音にならず、ちぅ、という音を立てて、彼は、私に触れるだけのキスをした。



学生みたいにドキドキしていた私に気付いているだろうか。
甘い刹那をもう一度だけ、彼は、私の額、頬、そして唇にキスをした。