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彼と手をつないだ掌を見つめながら、ソファに座る。
目の前で流れているテレビも、家族の会話も右の耳から左の耳へ華麗に流れて行って一言も自分の中に残らない。
男性とのお付き合いはゼロではないが、充実していたわけでもない私としては手をつなぐだけでも一大事だ。
そもそも推し活の方が大事だったので見向きもしなかった、というのが正解だが。
「お姉ちゃん、あむぴと付き合い始めたんだって?」
右の耳から左の耳へと流れて行くばかりだったはずの言葉が、不意に脳みそで立ち止まった。
「それ、誰情報?」
視界に映っていた掌で両足を抱えて、妹に問う。
あむぴ情報、と躊躇いもなく言われた言葉は言葉の通り事実なのだろう。
ちょっと安室さん、妹に言わなくたって。
なんて思うけれど、私も口止めしたわけではないし、安室さんはそもそも妹と仲が良かったのだ。
そりゃ話もするだろう。
アーメン。
「ぼーっとしてるから大人の階段上ったのかと」
「私のこと何歳だと思ってる?
「恋愛年齢は私と変わらないくらいかなって」
「舐めるな」
もう少し大人です。
ちゃんと階段は最後まで登り切っている。
そりゃあ行為はどちらかと言えば苦手だし、気持ちいいと思えたことは一度もないけれども。
「え!?
お姉ちゃん彼氏なんかいたことあるの?
いつ、どこで、地球が何回回ったとき!?」
詰め寄ってきた妹の頭を遠慮なく殴ってから、頭を両手で抱えて痛みに蹲る妹も無視して自室に戻るため立ち上がった。
「お姉ちゃん!」
リビングのドアを閉めようとしたとき、妹の声が聞こえて私は動作を止めた。
ゆるりと妹の顔を見ると、妹はやけに真剣な顔をしている。
「本当に覚えてないの?」
何を、言いたいのだろう。
意図がわからなくて私は首を傾げた。
この子は何を言っているのだろう。
じ、と私を見る妹の視線から逃げるように、私はリビングの扉を閉めて、自室へと戻った。
その日はなかなか寝付けなくて、私は握った掌を見つめながらベッドの上をごろごろとしていた。
どうしてかな。
妹の言葉が頭を離れない。
私は何か忘れているのだろうか。
平凡に生きてきたつもりなんだけどなぁ。
あぁもう。
自分が何をしたいのか。
何を思ってるのか。
何を考えているのか。
誰か、教えて。
うとうととし始めた矢先に、視界が変わったような気がして今が夢なんだとわかった。
明晰夢って言うんだっけ。
だから何だって感じだけど。
私の視界は私自身の双眼から見える視界と変わらない。
隣にいる友達が大学の友人なのに、着ているのは高校の制服。
夢ってこういうとこあるよね。
小学生の頃の夢に高校の友人が居たり、その逆もまたしかり。
そう言えば、最近この大学の友人とは連絡取ってないかも。
起きたら連絡を入れてみようか。
そんなことを思っていた矢先のことだった。
よく遊んだ駅ビルの階段で、近くを歩いていたパリピの肘が私の背中を直撃したことで階段からその身を投げ出した。
しかも随分と上の方だ。
そのまま下に落ちたら軽い怪我では済まないだろう。
あぁ、私、これ、知ってる。
実際に私の身に起きたことだ。
落ちる。
そう思った瞬間、私は目をぎゅっと瞑っていて、近くからは友人の叫び声にパリピたちの慌てる声。
そんな声が聞こえたと思った瞬間、私はドサ、と音を立てて何かに抱き留められた。
勢いがあったせいでお互い立ったままとはいかなかったが、恐らく打ち身程度だろう。
私も、私を抱き留めた相手も。
目を開けたとき、ハニーブロンドの髪が視界で揺れる。
幼い顔立ちだが、着ている制服の使用感から察するに中学三年生だろうか。
勿忘草色の瞳が、私を吸い込んだようにその目に引き付けられた。
幼い顔立ちを心配で一色にした彼を、今の私は知っている。
嘘、そんな、まさか。
そうは思うけれど、本物とは異なるキャスティングをされたとは思えなかった。
過去の夢を見ているというよりも、追体験をしている気分だ。
あの時助けてくれたこの子は、間違いなく彼だとわかった。
目の間の、年齢にして一つしか変わらない彼は私の様子を見てほっとしたように表情を緩めた。
私よりもきっと強く地面に打ち付けられたのは彼なのに、どうしてそんな表情をしてくれたのだろう。
今になって思うのは、そんなことだ。
当時はそんなことを思う余裕はなかった。
「ゼロ、大丈夫か!」
彼の友達だろうか。
同じ制服を着た彼が駆け寄る。
同じように、私の友人も階段の上から下りてきた。
肘が当たったパリピは逃亡済だ。
パリピよ、逃げるのが一番いけないんだぞ。
そうは思うが、当然当時の私の頭からそんなことは抜け落ちている。
「…天使が降ってきた」
不意に聞こえてきたのは私の下からで、と言うことは当然言ったのは下敷きにしている彼だ。
そう呟いた彼をまじまじと見つめた。
この子は、一体なんて言いましたか?
「なんて?」
「俺と付き合ってください!」
「辞退させてください」
思わずテンポに乗って勢いのまま答えてしまった。
すると目の前の彼は少し悔しそうに表情を歪めた。
そのご尊顔から告白を断られる機会なんてなかったのだろう。
いや、でも、天使とかあまりにも胡散臭すぎて頷く気にはなれない。
お互い立ちあがって、怪我の有無を確認する。
彼も尻餅くらいで痛めた様子もなさそうだ。
もしこの後痛みが出たら、と思って念のため連絡先を聞いて別れる。
その次の日からだった。
帰りの時間帯、校門にあのハニーブロンドを見るようになったのは。
そのご尊顔で当たり前に人の後をついてきて、でも話し上手…というか、話し出すと止まらないのか彼は楽しそうに学校生活や豆知識を披露してくれる。
個人的には話を聞いている方が好きなので彼との時間は苦痛ではなかった。
寧ろ、楽しかった。
あの時間を積み重ねていれば、恐らく遠くない未来で付き合っていたのだろう。
そう思えるくらいには、楽しかった。
新緑が光っているとか、雨上がりの水たまりですら愛おしかったり。
二次元以外に興味のなかった私は、その時初めて、いろんなことに興味を持ったように思う。
その幸せなまどろみの中、私は目を覚ました。
目を覚ました私の両頬は濡れていた。
どうして唐突に思い出したのかわからない。
でも、このことを忘れたときのことまでしっかり思い出した。
彼と出会ったほんの数日後、同じように階段だった。
学校の階段を下りていた時に、上から本が降ってきたらしい。
見事に頭に当たった私は残り数段を落ちて、ちょっとした病院ごとに発展した。
目を覚ました時には、数日間の記憶があやふやになっており、あのハニーブロンドとの出会いも忘却の彼方。
次の日校門で会った彼に、誰、と私は言い放ったのだ。
平手打ちをされたような、傷ついた表情で目を見張った彼に、慌てて私の傍にいた友人がことのあらましを告げたのだ。
どんどん暗い表情になる彼が、最後に唇を噛み締めて、一言だけ、零した。
「それは残念です」
以来、彼と会うことはなかった。
なんで忘れていられたんだろう。
こんなに大切な思い出だったのに。
記憶にはなかったが、潜在意識には残っていたのだろう。
金色の髪に褐色の肌、そして青い瞳。
何より、私が推しを表す言葉は、「天使」。
二次元オタク的にはありふれた言葉だけど、私には特別な言葉だったのだ。
彼がくれた、最初の言葉だったのに。
「なんで、」
悔やんだところで過去は戻らない。
分かっているけど、私は泣かずにはいられなかった。
あの日彼に言い放った「誰」も、ポアロで告白された返事も、全部全部、やり直したかった。
彼は、やり直させてくれるだろうか。
翌日、金曜日。
ポアロに行くと安室さんがカウンターの向こうで可愛らしくにこりと笑った。
「いらっしゃいませ、ひなさん」
その様子は、過去に出会った彼とは似ても似つかない。
学生の頃の彼はもっと自信家で、顔立ちとは裏腹にかっこいい雰囲気を携えていた。
「店内で、いいですか?」
そう聞くと、嬉しそうにもちろん、と笑う。
前と同じようにカウンターに案内されて、私は前とは違うパスタと食後のカフェラテを注文した。
帰り道一緒に帰ることを約束したので、彼が閉店業務している姿を眺めていた。
最後にエプロンを脱いだところで、安室さん、と声をかけた。
私と面と向かった彼に、先日株主総会があったホテルの名前を告げる。
彼の表情は変わらなかった。
「見かけたんです。
綺麗な女性と歩いてる、貴方を」
「…クライアントと居た時でしょうか」
そう返ってくるだろうなと、思っていた。
事実そうなのかもしれないし、違うのかもしれない。
それは私がわかることではなかった。
椅子に座る私は、自分の膝に乗る両手を見つめた。
言わずに、生温い微睡にいることは容易だ。
それを選ぶことも、今ならできる。
もし学生時代のことを思い出さなかったら、私はきっとその選択をしただろう。
でも、私は思い出してしまったのだ。
あの日の彼を。
<安室透>からは生まれなさそうなあだ名の、ゼロ、と呼ばれた彼を。
「別人のように思えました。
私の知ってる安室さんは、優しくて、可愛くて、たまにかっこいい、そんな人で…。
でも、あの日のあなたは、端正で、冷たくて、怖いと、思った」
すぅ、と目の前の彼から可愛さが消えた。
冷たくもないし、怖くもないけれど。
「クライアントの腰を抱いていたこと、怒ってますか…?」
少し寂しそうに首を傾げた彼に、私は頭を振る。
「あなたは、必要があることをする人だと思っているので」
無暗に女性に手は出さないだろう。
ポアロの様子を見ていればわかる。
特に女性との距離には気を使っている。
つまり、あの日はそうする必要があったからやったのだ。
そう言うと、彼はならばなぜ、と言う疑問の目で見てくる。
「あなたに、聞きたいことがあります」
バクバクと心臓は煩いけれど今は無視に限る。
そうしないと、私は前に進めないのだから。
周りの空気を騒がせないように、小さく深呼吸をして、私は彼を見据える。
「私は今でも、あなたの天使ですか?」
一度耳から脳へと届いた言葉をかみ砕いて、飲み込んだ。
そんなタイムラグの後、彼はその目を見張った。
「それ、は…」
今までとは違う雰囲気を身にまとう彼がきっと、本当の彼なのだ。
あの学生の頃、数日間だけ一緒にいた、<ゼロ>。
あなたが違う人でもいい。
それでも愛していたかった。
そう言うと、彼は嬉しそうに、記憶の彼と同じ顔で笑った。