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ひなが歌っていた。
一緒に住み始めて数年、結婚して数ヵ月経つけど、まだ伴奏付きで聞いたことのない曲だ。
数週間前から譜面とピアノに向き合っているその姿は、俺にとってある種の癒しだった。



今、俺は唯のサラリーマンだった。
…いや、唯の、とは違うかもしれない。
復職として、イラストレーターの仕事もしている。
たまに売れるデザインやイラストでは食べていけないからサラリーマンとして、平日に働いている。
正直、ひなの稼ぎがあるから、イラストレーターとしてだけでも、衣食住には困らないだろう。
でも、ひなの稼ぎに頼るのはどうしても俺のプライドが許さなかった。
決して男尊女卑をするつもりはないが、愛しい妻に、自分の稼いだ金で贈り物をしたかった。
第一、イラストを描いていくのにも金が掛かる。
画材を統一してない俺の場合、それは尚更だった。
イラストが多く売れれば、とも思うが、現実はそう上手くは行かなかった。



何度も似たメロディを、歌詞を聞いていくなかで、一つの絵が思い浮かんだ。
鉛筆でラフスケッチを描いたあと、スケッチブックを遠くに置いて身体のバランス、絵全体のバランスが可笑しくないか確かめる。
あぁ、この絵は何で仕上げよう。
淡い感じを出したい。
でも、精密なものよりは子供の落書きのような、あどけなさも欲しかった。
そう思ったら、画材は直ぐに決まった。
色鉛筆とクーピーで、主線からところどころはみ出したように色を塗っていく。
人物の周りを、その二つとクレヨンで色付けた。

ふと時計をみたら、いつの間にか三時間が過ぎていた。
道理で歌声とピアノの音が聞こえないわけだ。
ひなは今ごろキッチンで夕飯を作ってる。
イーグルに絵を立て掛けて、伸びをする。
集中すると周りの環境に見向きもしないのは、悪い癖だ。

「わぁっ、かなさん絵!」

いつの間に居たのか、ひながドアから俺の絵を見ていた。
その目が異様に輝いて見えるのは決して幻覚では無いだろう。

「凛ちゃん、凛ちゃん!
くぬ絵、ぬーをイメージして描いたんばぁ?」

絵の傍に寄って、まじまじと眺める。
あー、正直に言うのは恥ずかしいけど、この様子からしたら、ひなはとっくに気付いてるんだろう。

「最近、やーが作っちょる歌さぁ」

俺が言うと、ひなはやっぱり!と笑った。

「ね、ね、わん、ゆたさんくとぅ思い付いたっ!
来週、まじゅんやまとぅりっか!」
「日曜ぬ、か?」
「うんっ!」

まぁ、日曜ならば仕事もないし、一向に構わない。
だけど、一つ問題がある。

「ひな、ゆたさんくとぅってぬーさ」
「秘密!
来週ぬお楽しみさぁ。
あ、うぬ絵、売らないでね!」

ひなは絵を指差して微笑む。
俺が頷くのを確認してから、ご飯出来たよ、と本来ここに来た理由を告げた。






日曜、絵を持ってひなについて事務所に入る。
誰か、と受け付けに問われたけど、ひなが私の旦那です、って言ったらそうですか、と微笑まれた。
首から下げる札を渡されて、中に入る。
目的の階までエレベーターで向かった。
二人きりになったところで、ひなに問う。

「ひな、いい加減教えてくれよ」
「まーだ!
我慢して!」

数日前から聞いているが、ひなは一向に話してくれない。
あぁー、気になる。
チン、という軽い音が目的の階に着いたことを知らせる。
ひなの後に付いて、俺は歩き出した。

「大橋さぁーん」
「ひな、お疲れ………あれ、平古場君じゃない。
久しぶりね」

ひなのマネージャーである大橋さんが、俺の存在に気付いて微笑んだ。
俺はそれに軽く頭を下げて答える。

「お久しぶりです」
「今日はどうしたの?
ひなとデート?」
「わんも、解らないんですよ」
「へ?」

大橋さんはちらりとひなを見た。
同じように、俺もひなを見る。
にまにまと笑っていて、……可愛い。
………じゃない!
何か企んでる表情だった。

「大橋さん、次ぬシングル、まだジャケット決まってねーらんよねぇ?」
「曲も確定じゃないんだからそうに決まってるでしょう。
まだ出来ないの?
今日持ってくる予定でしょ」
「持ってきましたっ!
でね!
凛ちゃん、絵!」

ひなは俺を見て言う。
なんか、嫌な予感がしてきた。

「う、うり…」

ひなに絵を渡すと、ばっと大橋さんに見せる。

「くぬ絵を使って欲しいんです!」

や、やっぱり…!

「ふりむん!
そういうくとぅは普通、先んかい描いた本人にあびてぃーくとぅやっし!」
「別んかいゆたさんさぁ!
いつあびてぃーところで変わらねーらん!」
「阿呆!」
「まぁまぁ、二人とも落ち着いて…」

大橋さんに言われて、俺たちは言い合いを止める。
ため息をついてから、大橋さんはかひなに曲を聞かせるように言った。
個室に移動して、俺たちはひなの新曲に耳を傾けた。



曲が終わってから、大橋さんはふわりと微笑む。

「うん、これを回すわね」
「よろしくお願いします!
で、ジャケはどう?」

ひなが俺の絵を指差して問う。
あー、やっぱ、忘れないか。
ちっ。

「平古場君…、この絵は、何をイメージして描いたの?」
「ひながなまぬ曲を作ってるときに、その曲調と歌詞を聞いて、です」

素直に告げると、大橋さんは嬉しそうに笑う。

「よねぇ。
うん、会議に出してみるわ。
温かい絵、私も気に入ったもの」

ま・じ・で・か!

「ちょ、……せめて、もう一度別ぬ絵を描くんじゃダメですか」
「んー……。
これは悪魔で素人目線だけど…、同じ絵って二度は描けないでしょう?」
「は、はい」

大橋さんの言葉に頷く。
確かに今までも何度も経験してる。
少なくとも、俺は同じ絵、同じ雰囲気を持つ絵を描けたことは無かった。

「それと同じ様に、この温かさを持つ絵も二度は描けないと思うの。
どうかしら?」
「……はい。
じゃあ、その絵で、よろしくお願いします」

頭を下げると、大橋さんが笑ったのが解った。

「任せてちょうだい。
きっとジャケにしてみせるわ。
ジャケが駄目でも、無理矢理にでも歌詞の所に入れてやるから」
「さっすが大橋さん!
頼りになる!」
「都合の良いこと!」

ひなの言葉に、大橋さんは苦笑した。

その後、何かしら方針が見えたり、連絡がある場合の為に連絡先を大橋さんに伝えて俺たちは空港に向かった。
予約していた夜の飛行機までに時間があったから、空港でお土産ショップを見て回る。
周りの一般人から、こそこそと声が聞こえる。
ひなの存在に気付いたんだろう。

ひなは、国民的歌手だ。

この事実に、昔は距離を感じたことがあったなぁ、と懐かしんでいると、ひなが凛ちゃん、と俺を呼んだ。
ざわめきが多くなる。
あぁ、相手の名前を覚えてしまうほどお前は俺の名前をテレビで言ってるのか。
……うん、確かに言ってるよな。

「ぬーさ」
「かなさんよ、くぬぬいぐるみ」

お前は小学生か。
そう言いたくなるのを抑えて、欲しいのかと聞けば、小さく頷いた。
あー、なんの反則技だ、お前は!
そんな可愛い顔されたら買ってやりたくなるだろ!?

「うり、よこせよ」
「あいっ!
でも、……」
「ゆたさんさぁ、買ってやるよ」

ひなは嬉しそうに笑って、俺の腰に手を回した。

「にふぇーでーびる、凛ちゃん!
でーじしちゅんさぁ!」
「ふ、ふらー、離れろ!」



           カシャ



、何か、音が聞こえた気がした。
周りを見渡しても、特に違和感を覚えるものも無くて、気のせいかと思って俺はレジに向かった。